大童法慧 | 80時間 
何かを得ようとするのではなく 何かを捨ててみよう
大童法慧,曹洞宗,僧侶,祈祷,相談,生き方,悩み
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12月 10日 80時間 

通年実習、80時間を終えることができました。
受け入れてくれた施設の関係者、利用者さんに感謝しております。

 

<備忘>

今春の時点で、「「老いる」ことを学ぶをテーマに、お年寄りと関わろうと思う。また、何かを伝える、何かを手助けるという在り方ではなく、「その人」との関わる姿勢を学びたいと考えている。」と表明した。

しかしながら、数回の訪問で突き付けられた現実は、「老いる」ことを学ぶというような悠長なものではなく、「老いた」姿そのものであった。それは認知症という病でもあり、「老いた人」を取り扱う施設と家族の姿であった。

  • 利用者同士の会話はほとんどない、溜息をつく人、机に突っ伏す人、天井の一点を見つめる人、奇声をあげる人とそれを見て見ぬ振りをする人
  • 病であるが故に、コミュニケーションが上手く取れないもどかしさ。方言が理解できずに、言葉が通じない感覚。
  • 何を考えるのでもなく、何を想うのでもなく、時間が過ぎていくのをひたすらに待っているかのように感じることもあった。それは、人生のほとんどのイベントは終わり、お迎えを待つ時間のようでもあった。

 

スピリチュアルな問いや痛みがあってはじめて、スピリチュアルケアが成り立つのだろう。そして、そのケアの結果、その人の人生観を支えるものに繋がることが最上なのかもしれない。

 

しかしながら、そんな第一義のスピリチュアルケアだけではなく、例えば、その人に出会えたこと、一緒にテレビを見たりおやつを食べたりすること、居心地の良さを共有した時間、今生きていること寿ぐような在り方もまた、スピリチュアルなケアなのだと教えていただいた。

 

生きること、老いること、今、命があることを全身全霊でご説法されたように思う。この経験を、「丁寧に他者と出会う」ことの根幹の一つにしたい。

 

今日もいいことがありました!

 

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