禅門の多くのお寺の玄関には、脚下照顧と書かれた物があります。
脚下照顧とは、足元を看よ、との意。
徒に、外に向かって、真理とか、真実とかを求めるのではなく・・・
その、あなたの、そのお足元。
そう、そこに。
いま、ここに。
宝の山がありますよ、との教え。
足元を看る。
その足元とは、あなた自身のお足元。
他人の足元ばかり、見てては、だめですよね。
1月 24日 布施
一般に、布施という言葉は、葬儀や法事に対するお礼として用いられています。
お礼の気持ちがあるのなら、まだ、話にもなりますが、現実には、読経に対しての対価、戒名に対しての代金のように思う方が多いようです。
お布施はいくらですか?
お気持ち結構です。
こんなやり取りも、今じゃ古臭いみたいで・・・。
はい、院号の葬儀は200万円で、その中陰忌の法事は15万円です。
と、答えるのが親切みたいで・・・。
さばけたお寺は、メニューよろしく、料金表を張り出す。
檀家という名の顧客は、お金を熨斗袋に包まず、裸で支払う。
そのうち、支払いは、カードで。ローンなんか組んだりして・・・。
【明朗なお布施】と、葬儀社さんが宣伝して・・・。
【お布施の価格破壊】と、僧侶派遣業社さんも広告を・・・。
いつの間にか、お気持ちがどっかに行ってしまった。
いつの間にか、お気持ちがいらなくなってしまった。
『修証義』というお経です。
〔原文〕
布施というは貪らざるなり、
我物に非ざれども布施を障えざる道理あり、
其物の軽きを嫌わず、其功の実なるべきなり、
然あれば則ち一句一偈の法をも布施すべし、
此生佗生の善種となる、
一銭一草の財をも布施すべし、
此世佗世の善根を兆す、
法も財なるべし、財も法なるべし、
但彼が報謝を貪らず、自らが力を頒つなり、
舟を置き橋を渡すも布施の檀度なり、
治生産業固より布施に非ざること無し。
〔意訳〕
布施というのは、貪らない事です。
施すべき物が無いとしても、布施の意義を損なうものではないのです。
施す物の軽少は問題ではなく、布施の心が大切なのです。
それ故に、一句一偈の教えをも布施すべきです。
今生はもとより来世にあっても善根の種まきとなるでしょう。
たった一銭であっても、わずかな物であっても布施の心を持って施すべきです。
それが、現世と来世に実を結ぶ尊い縁となるのです。
法と財とは別物ではありません。元来、一つものの裏表です。財法二施の功徳は無量なのです。
ただ、相手からの代償を求めないで、自分のもてる力量に応じて布施することが何よりも大切なのです。
このような布施の心をもってするならば、川に渡し舟を寄付したり、橋を架けたりすることも布施なのです。
社会の仕事としてあらゆる産業にはげむのも、本来は、布施の心に基づくものであり、実は、布施にほかならないのです。
金儲けだけのための仕事は続かない。
金で買えない物はない、と毒づいた実業家は、結局、自分の人生を買う事はできなかった。
働くとは、傍を楽にすること。
仕事は、金儲けではなく、布施の行の実践。
以前、勤めてたお寺での事。
父親が亡くなり、葬儀の依頼に来た遺族。
お金持ちの住職さんは、メニューを指差して、50万円を要求。
そんなに、払えない、余裕がない、と、懇願する遺族。
いくらまでなら出せるか、と尋ねる住職。
半分の25万円が精一杯です、と遺族。
わかりました、じゃあ、こういたしましょう、と、住職が出した提案。
通夜か葬儀か、どちらかだけにいたしましょう。
まず、坊主のお前らこそが、布施の行をしろ、と嗤われる。
布施というは貪らざるなり。
布施というは貪らざるなり。
淡雪の 中にたちたる 三千大千世界
またその中に 沫雪ぞ降る
良寛
三千大千世界とは、仏教の宇宙観です。
須弥山を中心とした小世界を千倍したものを小千世界、それを千倍したものを中千世界、さらにそれを千倍にしたものを三千大千世界という。つまり、この世界には合計で1000×1000×1000=10億の世界があると説かれてあります。
今、私たちの生きているこの世は、目には見えないけれども、実は、とても広く、とても深く、そして、とても大きな世界なのです。
地球上の、日本の、神奈川県の、川崎市の、溝の口の、某所にいるけれども、その命は、三千大千世界を生きているのです。
現実の、溝の口での、せこせこした生活のみが、全てのような気がするかもしれないけれども、実は、この一挙手一投足が、この一呼吸が、三千大千世界と繋がっている。
せこせこした暮らしの、せこせこした命のみに執着するのではなく、
大きな大きな命を自覚しながら、こころゆたかに人としての生を生きる。
雪が、ひらひらと舞う。
その一片、その一片に。
三千大千世界がある。
その三千大千世界の中にも、また、雪が、ひらひらと舞っている。
その雪を 拝まないでいられない 良寛さん。
真実は、日々のこの暮らしの中にこそある。
気付くか、気付かぬか。
気付くか、気付けぬか。
真実は、遥か彼方にあるのではなく、いま・ここにある。
超然として 天にまかせ
悠然として 理知を楽しむ
厳然として 自らを慎み
靄然として 人に接す
毅然として 節を持し
泰然として 難に処す
良寛 「六然観」
投稿日時 17:00
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法話
by houe_admin
みんな 心配いらないよ
みんな 心配いらないよ
何を心配しているの
自分が生まれたと思って心配しているのでしょう
生まれたんじゃないよ
生まれたんじゃないよ
<どういうことでしょう・・・・・>
もともと全部 授かっていた いのちなのです
ひょっこり生まれてきたんじゃないんだよ
はじめのはじめからいらっしゃった あなたです
真のいのちは常にひとつ
元来 授かっているいのち
<どこに・・・・・>
いつも 今ここ 一切に
一切に我がいのちは充満せり
縁によって 現れてくるものなのです
・・・・・ただ 現れる
縁によって しばらく姿を隠しても
何処へも行かない縁を
必ず現れてくる縁を
みんな一人ひとり 作っているのだから
必ず現れてくる
いのちは永遠なり
不滅のいのちの主人公なり
無くなっておしまいというようないのちではありません
さびしい・・・
かなしい・・・
つらい・・・
不安なものは ないよ
みんな 心配いらないよ
みんな 心配いらないよ
投稿日時 23:18
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僧侶的 いま・ここ,
法話
by houe_admin
少しばかりお時間をいただきお話をさせていただきます。 申し遅れましたが、私は曹洞宗の僧侶で法慧と申します。 お寺は福島県の郡山市にございまして、現在は川崎の溝の口で別院という形で坐禅や法話などの布教活動をしておりますが、昨今、ITというのでしょうか、あらたな世界がさらに広がりまし…
花は咲き時 咲かせ時 三原 脩監督 三原監督を師と仰ぐ、仰木 彬氏もこの言葉を好まれたようです。 親が子という花を、先生が生徒という花を、上司が部下という花を それぞれの花が持つ生命力を信じてあげる事。
12月23日に人形供養会が行われます。 このブログが機縁となり、私が導師を勤めさせていただきます。 ご供養のあと、「供養」とは何か、についてお話させていただきたいと考えております。 年の瀬を迎え、お忙しいことと思いますが、どうぞお越しください。 =================…
我に似たれば 非をも是と為し 我に異なれば 是をも非と為し 是非は始めより己にあり 道は其れ是くの如くにならず 良寛 ・・・他人のせいにしていないか。 ・・・己を高しとしていないだろうか。 MEMO 夫れ人の世に在るは、 草木の参差たるが如し、 共に一…
12月 07日 愛語
投稿日時 23:15
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by houe_admin
由乃さんからコメントを頂きました。
教えてください
言葉を選ばないがゆえに人を傷つけて(あるいは、あえて傷つける言葉を選び)、その傷つけられた人が「あなたの言葉で傷ついた」と伝えてきたら、それに対して「受け取る側の問題、あなたの意識の“低さ”が問題なのだ」と言い放つことは、はたして仏様のおっしゃるところの「自由」なのでしょうか。
>受け取る側の問題、あなたの意識の“低さ”が問題なのだ
この言葉そのものに、良し悪しはありません。あなたとAさんの関係がどのようなものであるか、それが、問題となるでしょう。
と、お答えしましたが補足いたします。
何かの指針となれば、と願っております。
以下は、『修証義』というお経にあります。
【原文】
愛語というは、衆生を見るに、先ず慈愛の心を発し、顧愛の言語<ごんご>を施すなり、
慈念衆生猶如赤子 <じねんしゅじょうゆうにょしゃくし>の懐<おも>いを貯えて言語するは愛語なり、
徳あるは讃<ほ>むべし、徳なきは憐れむべし、
怨敵を降伏し、君子を和睦ならしむること愛語を根本とするなり、
面 <むか>いて愛語を聞くは面 <おもて>を喜ばしめ、心を楽しくす、面わずして愛語を聞くは肝に銘じ魂に銘ず、
愛語能く廻天の力あることを学すべきなり。
【意訳】
愛語というのは、どんな人に対してもまず慈しみのこころを起こし、思いやりの言葉をかけてあげることです。
生きとし生ける者を慈しむという事は、例えば、赤ちゃんを思う母親のように、いっときも念頭から離さずに言葉をかけるのが愛語なのです。
善き行いの人を見ればほめたたえ、さらに精進できるようにしてあげなさい。悪しき行いの人には、非難したり咎めたりせずに憐れみの心で言葉をかけなさい。
自分を恨み憎んでいるような相手であっても、その憎しみを消し去り、あるいは権力者同士を仲直りさせるにも慈愛の言葉を根本とするのです。
面と向かって愛語を聞けば思わず顔がほころび、心を楽しくしてくれるものです。また、人づてに愛語を伝え聞くときには、その言葉は心に響き、感動して忘れられないものです。
愛語には天子の御心をも動かす力があることをよくよく肝に銘じ学ばなくてはなりません。
言の葉が言葉になり、相手に届く世界がある。
その言葉が愛語となり、相手に響く世界がある。
そして、愛語が廻天の力を持ち、自他のない不二の世界が現れる。
この不二の世界こそ、仏様の言うところの「自由」の世界です。
相手の事を我が事とし、本当に親身になり、ひとつとなって言う言葉のところに、真実があると思うのです。
馬鹿野郎という言葉そのものに、善悪や好し悪しはありません。
この言葉が、時として最高の褒め言葉にもなり、時として最大の侮辱の言葉にもなるという事。
その判断は、もう、お分かりですね。
仏様のいうところの「自由」の世界。
それは、そんなに遠くにはないはずだと思うのです。