大童法慧 | 法話
何かを得ようとするのではなく 何かを捨ててみよう
大童法慧,曹洞宗,僧侶,祈祷,相談,生き方,悩み
15649
paged,page-template,page-template-blog-large-image,page-template-blog-large-image-php,page,page-id-15649,page-child,parent-pageid-15636,paged-7,page-paged-7,ajax_fade,page_not_loaded,,vertical_menu_enabled,side_area_uncovered_from_content,qode-child-theme-ver-1.0.0,qode-theme-ver-7.2,wpb-js-composer js-comp-ver-5.0.1,vc_responsive
 



5月 18日 余命

そのご婦人が、家族4人でお寺を訪ねてきたのは、数年前の5月の事でした。 境内の掃除をしていた私に語りかけてきた言葉は、「このお寺は、曹洞宗ですよね?」でした。 「ご住職さんですか?少し、お話しを聞いていただけませんか?」 住職ではない事を伝えながら、泣き腫らしたような眼にただならぬものを感じ、師匠に取次ぎました。 彼女は、40半ばの主婦。夫と中学生の姉妹との4人暮らしの事。 穏やかな語り口でありながら、意志の強さをうかがわせる面持ちの彼女。 与えられしものを静かに赦し、じっと見守ろうとするご主人。 子供たち二人は、母の傍らから離れようとしませんでした。 「実は私、昨年の8月に、癌だと診断されました・・・余命1年だ、と。 はじめて、死ぬという事を突き付けられて・・・。 なぜ、なんで私が、という思いばかりつのりました。 ネットや本を読み漁ったり、人を訪ねていったり、とにかく、焦りました。 私には1年という時間しかないなんて・・・。 病気の事、娘の事、主人の事、人生の事、そして、私自身の事。 私は、何もわかってませんでした。 昨晩の事なんです。 いろいろと集めたお経本を眺めている時、『修証義』が目に留まりまして・・・ ああ、これだったのかと。涙が止まらなくなったんです。 身震いしながら、朝まで何度も何度も読み返しました。 気がつけば、大きな声を出して読んでました。 このお経について、もっと知りたいと思ったんです。 それで今日、家族でお参りをかねて、曹洞宗のお寺さんに伺ってみようと。」 師匠は幾度も頷きながら、黙って聴いておりました。 彼女の問いかけに応じながら、修証義を説いておりました。 師匠の傍で聞いていた私は、愧じいっておりました。 「・・・私は涙を流しながら、修証義を読んだ事があるだろうか。 私は咽びながら、修証義を押し頂いた事があるだろか・・・」と。 別れ際、笑顔で手を合わす家族に、「いつでも、どうぞ」と。 以後、再び入院するまでの2ヶ月の間、彼女は何度もお寺に訪れました。 そして、夏。 余命の宣告どおり彼女は・・・亡くなりました。 医療の発達により、今では、余命○年、余命○ケ月という言葉が市民権を得ています。 しかし、余命という言葉を待つまでもなく、私たちの死亡率は、100%です。 老若男女、ひとしく100%。 今日の命さえも、絶対の保障はありません。 後先の順番はあるけれど・・・ 散る桜 残る桜も 散る桜 散る紅葉 残る紅葉も 散る紅葉 癌を宣告されなくとも、一面においては、余命であり与命であり、そして、預命であります。 余った命とするか、与えられた命と受け止めるか、預かった命と達観するか・・・ 今回、舌癌という病と対峙して、私は余命を宣告されるまでには至りませんでした。 腫瘍の除去という事で、ひとまず、治療を終える事になりました。 この身体にも癌は宿り、隙あらば巣食う事を学びました。 そして、余命とは、いま・ここにしかない事も。 いや、命は、いま・ここ。 末筆ながら、様々な励ましをいただきました事、感謝申し上げます。 ありがとうございました。
続きを読む


2月 24日 自分を拝む

「自分で自分を拝めなかったら、本当に生きたとはいえないのよ」 これは、私が頭を剃るご縁を支えてくれた尼僧様の言葉です。 「自分で自分を拝めなかったら、本当に生きたとはいえないのよ」 では、自分で自分を拝むとは、どういうことでしょうか? おそらく、多くの方が、そんなに深く反省しなくとも、とても拝めるような自分でないなと気付くでしょう。 中には、俺は金持ちだから、私は大学院卒だから、または美人だから、という理由で自分で自分を拝めるという回答をする人もいるかもれしません。 しかしこれは、自分を拝める人というよりも、むしろ単に自分が好きな人でしょう。 なぜなら、お金の有る無しや学歴や美醜は、所詮、比較の問題にすぎないからです。 僭越ながら、少し私の話をさせていただきます。 私の実家は工務店です。実家の菩提寺は、浄土真宗西本願寺派です。 頭を剃ってなければ、今頃は工務店の社長をしていたかもしれません。 20歳の頃に大切な人との別れがありました。 それが機縁となり、禅の世界にひかれていきました。 大学は、駒澤大学の仏教学部にすすみました。 その頃、ありがたい事に、福井県にあるお寺の老師とご縁をいただきました。 在学中の4年間は時間とお金ができると、東京駅から夜行バスに乗ってそのお寺に参禅に通いました。 短いと1日、長いときで3ヶ月位。 何故に人は死ななければならないのか、何故に人は生きなければならないのか、ただ、真実をあきらかにしたい、そんな願いを持ちながら、老師様の教えを聞きに通っておりました。 大学を卒業してからも就職をしないで、そのままそのお寺に住み込んで坐禅をしておりました。 そのお寺での生活は、毎朝、朝2烓、2回という意味ですが、坐禅をします。 1烓とは、およそ45分です。 夜は3烓、3回坐禅をします。それ以外は、作務と托鉢。 小さなお寺ですから、畑を作り、3日に1度は托鉢に歩く。 接心という、1週間朝から夜までひたすら坐禅をする期間が年7回ありました。 夜は9時が就寝の時間でしたが、ゴザと坐蒲を持って、お墓で坐禅をしていました。 明け方まで坐っておりました。 その頃の写真を見ると、自分でもびっくりするほど細く、痩せています。 3歳になる姪に、これ法慧ちゃんだよ、と当時の写真を見せましたら、 首をふって、こんなの法慧ちゃんじゃない!って言われてしまいましたが・・・ 実は、修行を始めて間もなくの頃にイスラエルから来ていた参禅者の方と、大喧嘩をしてしまいました。 今思えば、本当に情けない事です。 老師からは、この事でこっぴどく叱られまして、「出て行け」とまで言われてしまいました。 若かったんですね。「出て行け」と言われれば、すぐ出て行こうとして。 そんな荷物をまとめている私のところに、兄弟子が来て静かにこう言ってくれました。 「全部が自分なんだ。お前は、誰と喧嘩しているんだ。 喧嘩をするという事は、結局、自分と喧嘩している事だぞ」 全部が自分・・・ その時です。ああ、これだったのか、と思いました。涙があふれてきました。 自分自身とは頭のてっぺんから足の爪先までの事だ、と思い込んでいたものが、急にほどけました。 ああ、自分という塊はないんだ、と。自分とは、この世界、全てが自分だったのだ、と。 この大きないのちにもっと深く気付きたいと願う一心で、老師に再び修行する事を請いました。 それから4年・・・老師にお坊さんになる事を許していただき、いまここに至っております。 仏教とは、仏の教えと書きます。 つまり、お釈迦さまのものの見方の事です。 お釈迦さまと同じようなものの見方をする事。 お釈迦さまと同じようなものの見方をする時、真理に照らして要らぬ心配をしなくなる、比べなくなる、そして、迷わなくなってきます。 南無帰依佛から始まり、不謗三宝戒で終わるこの16条の佛戒の根本は「衆生本来佛なり」であります。 私たちは、実は、佛様と同じいのちを生きている。 この戒は、破るとか守るが論点ではなく、持<たも>つという視点が大切になります。 持つとは、し続ける事。 わが身を懺悔しながら、繰り返し、繰り返し持ち続ける事によってのみ、このいのちが輝いてくる。 だからこそ、この身が尊い。 仏や仏の教え、そして、その教えを実践する者に響き、信じ、気付き、体現していくのも、この身があってこそ。つまり、この身こそが三宝であるからであります。 この身を謗らない事が、不謗三宝戒であります。 この尊いこの身を謗るような事はあってはならない。 この尊いこの身を傷つけるような事はあってはならない。 この身の尊さが分かれば、徒に命を奪い、与えられざる物を盗み、性を貪り、酔い、惜しみ、口に任し、己のみを高しとし、怒りに任すような真似は、できない。 南無帰依佛と手を合わす事とは、佛を拝み、佛の教えを拝み、それを実践する人々を拝み、 そして、自分を拝む事。 自分を拝むとは、この自分という塊を拝むのではなく、一切を拝む事であります。 一切を拝む事、それが、不謗三宝戒であります。 一切が自分であると気付き、信じ、拝む。 まず、自分を拝む事から、はじめてみましょう。
続きを読む


2月 12日 チェンダの供養

沙門は・・・ 病を得たとしても、薬の力を借りず、医者の力も借りず、ただ正念をもって耐える。 2月15日は、涅槃会。お釈迦様のご命日。 彼は、布教のために歩き続けていた。 すでに80歳となっていた。 バーヴァーという村で、鍛冶職人チェンダの接待を受けた。 「チェンダよ。あなたの用意したきのこの料理をわたしにください。また用意された他の噛む食物・柔らかい食物を修行僧に上げてください。残ったきのこ料理は、それを穴に埋めなさい。世の中で、修行完成者のほかには、それを食して完全に消化し得る人を見出しません」 岩波文庫『ブッダ最後の旅』 結果、彼は腹痛と激しい下痢に襲われる事になる。 下血を繰り返し、衰弱しながらも、おそらく彼は、生まれ故郷を目指し歩き続け、 しかし・・・クシナガラの沙羅双樹のもとで、力尽きた。 以前、兄弟子が半身不随になりました。 熱と咳で、「風邪かな?」と思い、布団で寝ていたそうです。 しかし、トイレに立とうとした瞬間、立てない、動けない自分に気がついたそうです。 救急車で運ばれ、精密検査の結果、脳にわずか数ミリほどの影がありました。 原因はわかっても回復の手立てはなく、ただただ安静にという事でした。 35歳で在家から出家し、すでに50歳を前にしての出来事でした。 お寺を持つ道を選ばず、修行道場に身を置く彼は、何を想ったでしょう。 来し方、行く末を考えて、夜、泣き声を噛み殺した日もあるでしょう。 ある日、若かった私の不躾な問いかけに、彼は穏やかに応えてくれました。 「法慧さんも、苦しい時に念じてみるといい。チェンダ供養、チェンダ供養ってね。 毒きのこであると知りながら供養を受け、苦しさにのたうちまわる釈尊の姿を思い浮かべると・・・私の苦しみなど問題ではないよ。」 そして、半年後・・・お医者さんに「奇跡だ」と言わしめる事が起きました。 彼は自分の力で起き上がり、数歩、歩いたのです。 懸命なリハビリと厳しい自律の結果、彼はおよそ1年で退院しました。 今、彼は還俗をし、信じる所の道を歩んいます。 けれども、深いご縁のある大切な兄弟子であります。 チェンダ供養 チェンダ供養
続きを読む


2月 06日 遺偈

遺偈とは、禅僧が末期に臨んで門弟や後世のためにのこす偈の事です。 毎年正月、己が境涯をもって、書き改めるものだと、師より習いました。 本年1月5日、曹洞宗大本山永平寺貫主・宮崎奕保禅師が106歳でご遷化されました。 遺偈に曰く、 慕古真心 不離叢林 ( 古の真心を慕い 叢林を離れず ) 末後端的 坐断而今 ( 末後の端的   而今を坐断す ) 下記は、宮崎奕保禅師の密葬を報じた中日新聞の記事の抜粋です。 密葬の様子とともに、このように禅師の遺偈と解説が掲載してありました。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 「慕古真心 不離叢林 末後端的 坐断而今」としたためられ、同寺によると「修行道場に生きてきて、先人の気持ちを思い、道場から離れたくないが、座ることが今、終わろうとしている」との心境が表されているという。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ・・・この解説を読んで、「何じゃ、これっ?」と思ったのは、私だけでないでしょう。 これじゃあ、まるで、ただの泣き言ではないか。 この遺偈を、こんなふうに受けとめるとは・・・ 「同寺によると」とは、大本山永平寺の事でしょう。 しかし本当に、大本山永平寺が、こんな解説をしたのでしょうか。 私は、こう思います。 祖師の心を慕い忘れず、どこにあっても、叢林を離れず。 この最期の時に当って、今一度、改めて一句を示そう。 この真実なるもの、而今を坐断す。 『五燈会元続略』には、「両頭共坐断 八面起清風」<両頭を共に坐断すれば、八面に清風起こす>という禅語があります。 両頭とは、生と死、善と悪、得と失、愛と憎、勝と負、苦と楽といった、二元での物の見方の事です。 私たちは、そんな両頭にこだわり、とらわれ、両頭の狭間で一喜一憂し、右往左往して暮らしているのではないでしょうか? 坐断とは、坐禅によって、両頭から生ずる迷い・苦しみを断ち切り、真実なるいのちに気付く事です。 二元の物の見方を坐断した世界が、而今の世界です。 しかし、禅師様は、その真実なる世界をも坐断す、とおっしゃられた。 その世界も腰をおろせば、偽者だぞ、と。 而今を坐断せよ 禅師様は、そう説き示されたのだ。
続きを読む


1月 01日 前へ

前へ前へ つまずいても 前へ前へ 転んでも 前へ前へ 倒れても 前へ前へ 腰骨を立て あごを引き 目を閉じる事なく 前へ前へ 嗤われても 罵倒されても 前へ前へ ・・・それでも 前へ前へ 焦点を地平線にあてて 前へ前へ 本年もよろしくお願い致します   法慧
続きを読む


12月 24日 初詣

今年の正月、やっとの思いで、主人と初詣にでかけました。 この3年間、お正月が来ても、とてもそんな気持なかったんです。 主人も同じだったと思います。 でも思い切って、誘ってみました。暖かく、穏やかな日でした。 娘が生きていた6年間、毎年、一緒にでかけた神社です。 はっきりと思いだすんですよね、娘の事を。 ああ、ここでお御籤を買ったなとか・・・ここで、お昼を食べたなとか・・・ここで、写真を撮ったなとかって・・・ 毎年、家族で一枚の絵馬を求め、願い事を書いてました。 みんな元気で暮らせますようにとか、パパが煙草をやめられますよにとか、マンションを買う夢もあったし・・・ 「絵馬を書かない?」と、主人に言いました。 彼は、黙って頷いて・・・先に書きはじめました。 渡された絵馬には「貴代美が幸せになりますように パパ」と、書いてありました。 貴代美とは・・・娘の名前です。 それを見た時、涙があふれました。でも、その時です。 「やり直せる」って、この人と一緒なら、「きっと、やり直せる」って、身震いをしてしまうほど強く感じました。 亡き吾子の 幸せ願う 初詣 ・・・間もなく、新しい年がやってくる、さぁ。
続きを読む


12月 16日 省みる

今月はじめ、東京都私学財団主催による、渡辺徹氏の講演会がありました。 演題は、「生きた目線」 役者になる経緯や文学座での体験談。 ドラマ太陽にほえろの新人刑事として大抜擢された事や、石原裕次郎氏との出会いの事。 新人刑事役として、撮影現場では走ってばかり。 与えられた台詞は、わずかだった。 満を持して言う台詞に、OKがでない。何度も、取り直しを命じられた。 文学座で学習したものを、改めて読み直したり、その役になりきろうとして努めたりしたけれども・・・全く、だめだった。 落ち込む日々の中、公園のベンチに座っていた時の事。 砂場で数人の幼児が遊んでいた。 親たちは、そんな子供に目もくれず、おしゃべりに夢中。 どうやら、子供たちはお城をつくろうとしていたらしいが、うまくいかない。 何度も繰り返すが、失敗ばかり。 その姿を見続けているうち手伝ってあげようという気になり、ベンチを立ち上がって・・・ その時、「ああ、これだ」と、気付く経験をした。 この子達の行為は、充分に、俺を説得したではないか。 演じるとか、なりきるとか、そんな頭であれこれと作り上げたものは、必要ないんだ。 純真な思いがあれば伝わるし、それだけで、見るものを感動する事ができる。 次の撮影。 彼の台詞は、一発でOKだった。 話を聞きながら、ふと、わが身を省みて、思った事。 布教の勉強をしているけれど、それは、あれこれと頭で考えて・・・ 間がどうだ、構成がどうだ、時間配分がどうだ、発声がどうだ、等の指摘もあるが・・・ 問われている本質は、伝えたい法や思いがあるか否か、だ。 法話は、ちょっいい話でも、面白小話でも、独自の見解でもない。 布教を志すお坊さんを「ベロ師」「舌屋」「口坐禅」と、揶揄するお坊さんもいる。 無舌居士・三遊亭円朝師匠は、山岡鉄舟大居士に「舌で話すな」と、諭され禅を学んだ。 時に、虚空にむかって、話りかけているような届かない空しさを感じる事もある。 語りかけなくとも、伝わるものがなければ・・・ 語りかけなくとも、伝わるものを持たなければ・・・ ・・・そう、語りかけても、何も伝わらないのだ。
続きを読む


12月 04日

試みに、筆を持って、横線を書いてごらん。そう、漢数字の「一」を。 どうかな?その「一」は? 上手に書けたかな?それとも、思うようにいかなかったかな? もし、今、あなたが書いたその「一」に、あなたの全てが現れていると指摘されたら、どう思うかな? 「勝手に決めんなよ。そんなんで、何がわかるんだよ!」って、思うかな? 確かに、そうだよね。そんな「一」の字ひとつで、俺がわかってたまるかって、ね。 でもね・・・ 高校生の頃、小林秀雄が好きでよく読んでた。『西行』とか『無常といふ事』とか。 評論はともかく、小林から二つの事を学んだ。 そのひとつは、作家の本を全集で読む事。 大学の頃、坂口安吾や中島敦、そして、吉田松陰なんかに取り組んだ。 リルケの原文は、数ヶ月で挫折しちゃったけどね・・・。 もうひとつは、審美眼を養う事。つまり、本物を見るって事。 縁あって、遠州流の茶道を学び、美術館や博物館に通ったよ。 でもなかなか難しいし、実際、そんなに解るもんではないね。好き嫌いもあるしさ。 でも、本物に触れる事は大切だと思う。芸術でも人間でも・・・ タイトルは失念したけど、小林と亀井勝一郎がバスに乗って、伊豆を散策している時の話。 確か、亀井勝一郎だったと思うんだけど、まぁ、いいや。 そのバスに、地元の女子高生が乗ってきた。 彼女の顔を見た瞬間、小林は亀井に、これから彼女が歩む人生が見えるって、伝えるんだ。 すると、亀井が「俺も見える」と応えた。 顔を見た瞬間、その人が解る、もしくは、解ったような気になる。 手相というのもあるし、人相というのもある。 もっと簡単にたとえれば、電話でもそうだろう。 相手が目に見えなくとも、なんとなく、わかる。 どんな思いで話をしているかって。 だいたい、人は声を聞けば、ね。 そういうことって、考えてみれば普通にやっていることだろう。 ほら、第一印象や先入観とか、この言葉は特別なものではないよね。 第一印象が良かったとか、先入観を持って彼を見たとかってね。 そう、それと、同じ事なんだ。小林や亀井が見たものは。 ただ、その瞬間に、得る物・気付く物を正しく受け止め判断する力があるんだ。 それはおそらく、人生の波にもまれ、苦しみ、あがいた結果、身についたものだろう。 そして、それと同時に、彼らが本物を知っていたからだろう。 最初にいったね。本物の芸術と本物の人間に会う事の大切だって。 お拝をして教えを請える人に会えれば、そんな師と呼べる人に会えれば、幸せだよ。 だからこそ、常に審美眼を磨き、感度を良くしていなければならない。 坐禅の修行に独参<どくさん>というのがあるんだけど。 坐禅中に、師が鈴を鳴らす。これは見解<けんげ>をもってこいという合図だ。 すると、修行者は一目散に走って、喚鐘場に並ぶ。 そして、師の合図のチリンチリンが聞こえるや、喚鐘をふたつ打つ。カーン・カーンってね。 本当はそのカーンの鐘の音ひとつで、勝負あり、なんだって。 そう、「カーン」に全部が現れている、足音に全部現れている、呼吸ひとつに、お拝の姿に・・・だから、もう一度坐りなおしてこい、とチリンチリンって、鈴が鳴る。 さて、最初の「一」の話だけど、やっぱり解るんだよね。見る人が見れば、解る。 「書は心だ。上手い下手ではないんです」という意見もある。 けれど・・・考えてごらん。 いくら真心があっても、それを上手に表現できなければ、もったいないよね。 若い頃は年上のお姉さんに惹かれてしまう事が多い。 僕も経験があるけれど、近所にとても優しく綺麗な人がいてね。 ませたガキだったんだね、お姉さんに憧れてた。 朝、「おはよう」と挨拶をするだけで、その日の訪れを感謝したくなるくらいの人だった。 会えない朝は、学校を休もうと思うくらい、落ち込んだ。 そんなある日、僕は彼女の落とした手帳を拾うことになる。 その手帳に書かれた字を見たとき、僕は・・・ 字の話から進めてきたけど、じゃあ、お前の字はどないやねん、と言われると・・・ いざ、練習。
続きを読む


11月 11日 修業と修行

業を修めると書いて、修業。 学芸を習い修めるのが、修業。 一事を究めようと、一事に秀でようと、修練を重ねる。 和菓子職人になるための修業、小説家になるための文章修業。 習得がすめば、その修業は卒業できる。 行を修めると書いて、修行。 仏道や武道を修めるのが、修行。 一つ一つの行いを丁寧に修めていくのが、修行。 お寺で坐禅修行、技を極めたものが道場を巡って武者修行。 心掛け次第で、どこまでも深めていける。 鈴木正三が、弟子の恵中に示した。「修行とは、我を尽くす事なり」 「我を尽くす」とは? 自分の為に、懸命に励む事のように思うけど・・・ 頑張っている俺には、褒められたい俺がいる。 努力している私には、認めて欲しい私がいる。 頑張りや努力のそばに、他人と比べる自分が顔を出す。 隣りを横目で覗く事でしか、自分を確認できない。 止むにやまれぬ思いから、禅門に飛び込んだあの日、お師匠様からこんな教えをいただいた。 「いま・ここ・一所懸命」 「他人と自分を比較する事をやめなさい」と。 慙愧に耐えないけれども・・・ 我を尽くすとは、自分という塊に拘泥しない事。 我を尽くす時、実は、我ならざるものはない。 いま・ここに、全てがあった。
続きを読む


11月 04日 他己

夕方、かったるそうにレジを打つ30前の店員。 小銭を取り出すのに手間取っている老婆に、小さく吐き捨てた。 「うぜぇ、早くしろよ」 1時間なんぼの仕事にさえ、プライドが持てないのか? こんな店員を雇い、使いまわして捨てるのも、これもまた、雇われの店長。 「母子家庭になったおかげで、市営住宅にも入れたし、手当ても結構、貰えるの」と、カウンターで、寿司をほおばりながら語る女。 「5年前に離婚届けをだしてさ、でも、実は、・・・ずっと、旦那と暮らしてるのよ、凄いでしょ。だって、こんな時代、真面目にやったら、貯金もできないわよ。 子供?いるわ。小学生と中学生の二人の息子」 利権目当ての偽装離婚。 その親の背中は、どんなふうに、子供に映るのだろうか? くすねた金じゃあ、うまい酒は飲めやしない。 大きなバイクを買っても、任意保険に入らない理由は、「金がないから」 高級車を転がしても、娘の保育料を払わぬ親。 ブランド物のバッグを持つために、「援助」を求める女。 そりゃあ、いい物はいい。でも、本当はどうなのか? 消費による自己実現。晦まされた人の価値。 自由とはお金の事かい? 道元禅師は、他にも己という字をつけ、他己<たこ>と現した。 自分と他人ではなく、自己と他己。 自分と他人の二つではなく、己ひとつ。 ふたつの対立の世界ではなく、へだてのないひとつの世界。 己ひとつの世界だよ、と。 自分の物は俺の物、他人の物も俺の物とするのは、蛸野郎の論理。 他己、それは、他もまた己にほかならぬ事。 自己とは、自分に現れた己であり、他己とは、他に現れた己の事。 つまり、すべてが己。 己ひとつが解れば、老婆が己の姿と重なるだろう。 己ひとつが解れば、世間を騙す事は、己自身を騙す事に気付くだろう。 己ひとつが解れば、この命もその金も、預かり物だと知るだろう。 己ひとつの世界だからこそ・・・愛おしいのだ。
続きを読む