佛、沙門に問う「人の命、いくばくの間にか在る」 対えていわく「数日の間なり」 佛いわく「汝、いまだ道を知らず」 また一の沙門に問う「人の命、いくばくの間にか在る」 対えていわく「飯食の間なり」 佛いわく「汝、いまだ道を知らず」 また一の沙門に問う「人の命、いくばくの間にか在る」 …
過ぎ去れるを 追うことなかれ。
いまだ来たらざるを 念<ねが>うことなかれ。
過去、そはすでに 捨てられたり。
未来、そはいまだ 到らざるなり。
されば、ただ現在するところのものを、
そのところにおいて よく観察すべし。
揺らぐことなく、動ずることなく、
そを見きわめ、そを実践すべし。
ただ今日まさに作<な>すべきことを 熱心になせ。
たれか明日 死のあることを知らんや。
まことに、かの死の大軍と、
遇<あ>わずというは、あることなし。
よく、かくのごとく見きわめたるものは、
心をこめ、昼夜おこたることなく 実践せん。
かくのごときを、一夜賢者といい、
また、心しずまれる者とはいうなり。
『一夜賢者の偈』 増谷文雄 訳
一、心に物なき時は 心、広く 体、泰<やすらか>なり
一、心に我儘<わがまま>なき時は愛敬失わず
一、心に欲なき時は義理を行う
一、心に私なき時は疑うことなし
一、心に驕りなき時は人を教う
一、心に誤りなき時は人を畏れず
一、心に邪見なき時は人を育つる
一、心に貪りなき時は人に諂<へつらう>うことなし
一、心に怒りなき時は言葉和らかなり
一、心に堪忍ある時は事を調う
一、心に曇りなき時は心静かなり
一、心に勇みある時は悔やむことなし
一、心賤しからざる時は願い好まず
一、心に孝行ある時は忠節厚し
一、心に自慢なき時は人の善を知り
一、心に迷いなき時は人を咎めず
上杉謙信 『宝在心』
春は別れと出会いの時節。
ご用心、ご用心。
2月 16日 涅槃会
2月15日は、お釈迦様が入滅<にゅうめつ>された日、つまり、お亡くなりになられた日です。
お釈迦様が入滅に臨んで、垂れられた最後の説法だと伝えられているお経、『佛垂般涅槃略説教誡経』(佛遺教経)があります。
このお経には、戒の大切さ、及び、わがままな欲望のみの暮らしは、実は、苦でしかない、と示されています。
そして、八大人覚<はちだいにんがく>、大人として覚るべき八つの事、無求、知足、遠離、精進、不妄念、禅定,智慧、不戯論を説き、その教えを実行する事の大切さを強調されています。
頭で理解するだけではなく、実践こそが大切なんだ、と。
この世の在り方は無常であり、移り変わっていくものだけれども・・・
それは、悲しむべき事ではなく、実は、ありがたいの事なんだと、と。
なぜなら、無常であるからこそ、人として成長ができ、仏の教えに出会い、真実を知り得る事ができるのだ、と。
そして、ものの見方こそが、佛法であり、そのものの見方を正しく理解し、実践し、伝えていく時、そこに、お釈迦様が現前しているのだ、と。
真実のいのちは、決してなくならないのだ、と。
このお経は、禅門では、枕経や通夜にも諷誦されるお経のひとつです。
寒さと暑さ
飢えと渇えと
風と太陽の熱と
虻と蛇と
これらすべてのものに
うち勝って
犀<さい>の角<つの>のように
ただ独り歩め
『ブッダの言葉』 中村 元 訳
犀の角は、ひとつしかありません。
他の人からの毀誉褒貶に煩わされること無く、真っ直ぐに、佛の道を。
このブログがご縁となり、新たなご縁をいただきました。 葬儀や法事の相談を受けたり、また、法話の依頼をいただいたりするようになりました。 こんなブログでも、多い日には、300を超えるアクセスがあります。 こんな内容でも、支持するコメントを頂き、励まされております。 正直な話、恥ずか…
不立文字 教外別伝 直指人心 見性成仏
これは,達磨大師の言葉と伝えられています。
不立文字<ふりゅうもんじ>とは、
禅は、文字や言語では現す事ができない。
坐禅をする体験によってのみ、体得できるものである。
教外別伝<きょうげべつでん>とは、
文字言説による教説の外に、心から心に禅の真髄を伝えてきた事。
以心伝心と同義。
直指人心<じきしにんしん>とは、
外にばかり目を向けず自分の心をよく見つめなさいという事。
思考や分析をいくら重ねても、自分の心をつかめるものではない。
見性成仏<けんしょうじょうぶつ>とは、
自分の本性をよく見つめれば、仏性に出会い、見<まみ>え、自分が自分になることができる事。
川崎いのちの電話公開講座 養老孟司氏講演会『死の壁をこえる』が、昨日、開催されました。
その要旨。
人には、本来、感覚の世界と概念(意識)の世界がある。
感覚の世界とは、違いの世界であり、
概念の世界とは、同じの世界である。
現代人は、概念の世界にのみに価値を認めようとする。
概念の根会とは、言葉の世界。言葉は、人や社会を均一化してしまう。
しかし、頭で考える事に、どれだけの意味があると言うのか?
概念の世界のみを相手にする事で、結局は、その概念に殺されてしまう。
大切な事は、感覚を開く事。
感覚には、周りの世界を見る働きと自分の体を知る働きがある。
言葉や文字、つまり、概念で坐禅を理解しても、それは、理解でしかない。
大切な事、それは、坐る事。
禅の坊主にとっての感覚とは、坐禅。
【原文】 縦読恒沙書、不如持一句。 有人若相問、如実知自心。 良寛 【読み下し】 縦へ恒沙の書を読むとも、一句を持するに如かず。 人有り若し相問はば、如実に自の心を知れ。 【補足】 数巻の書物をよんでも、心得が違うと、野郎の本箱字引になるから、ここを間違わぬようにすべし。 勝 小…
禅門の多くのお寺の玄関には、脚下照顧と書かれた物があります。
脚下照顧とは、足元を看よ、との意。
徒に、外に向かって、真理とか、真実とかを求めるのではなく・・・
その、あなたの、そのお足元。
そう、そこに。
いま、ここに。
宝の山がありますよ、との教え。
足元を看る。
その足元とは、あなた自身のお足元。
他人の足元ばかり、見てては、だめですよね。
淡雪の 中にたちたる 三千大千世界
またその中に 沫雪ぞ降る
良寛
三千大千世界とは、仏教の宇宙観です。
須弥山を中心とした小世界を千倍したものを小千世界、それを千倍したものを中千世界、さらにそれを千倍にしたものを三千大千世界という。つまり、この世界には合計で1000×1000×1000=10億の世界があると説かれてあります。
今、私たちの生きているこの世は、目には見えないけれども、実は、とても広く、とても深く、そして、とても大きな世界なのです。
地球上の、日本の、神奈川県の、川崎市の、溝の口の、某所にいるけれども、その命は、三千大千世界を生きているのです。
現実の、溝の口での、せこせこした生活のみが、全てのような気がするかもしれないけれども、実は、この一挙手一投足が、この一呼吸が、三千大千世界と繋がっている。
せこせこした暮らしの、せこせこした命のみに執着するのではなく、
大きな大きな命を自覚しながら、こころゆたかに人としての生を生きる。
雪が、ひらひらと舞う。
その一片、その一片に。
三千大千世界がある。
その三千大千世界の中にも、また、雪が、ひらひらと舞っている。
その雪を 拝まないでいられない 良寛さん。
真実は、日々のこの暮らしの中にこそある。
気付くか、気付かぬか。
気付くか、気付けぬか。
真実は、遥か彼方にあるのではなく、いま・ここにある。
超然として 天にまかせ
悠然として 理知を楽しむ
厳然として 自らを慎み
靄然として 人に接す
毅然として 節を持し
泰然として 難に処す
良寛 「六然観」