大童法慧 | 僧侶的 いま・ここ
何かを得ようとするのではなく 何かを捨ててみよう
大童法慧,曹洞宗,僧侶,祈祷,相談,生き方,悩み
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2月 20日 神も仏もあるものか

どこに続いているかわからない 真っ暗の夜道 一人寂しく ただ歩む その前を楽しそうに歩くあなたを見つけた 「その人に解決できる問いしか立てられないものよ」とあなたは微笑んだ そう、「神も仏もあるものかと」思うのならば、そこにいるのは、私独りだけ だから、「それでも・・・・神も仏もいる」と思えるのならば、私は独りではない     いつもともに  広島市 植松伸子 元気になったら すぐに 忘れてしまうのです あなたのことを だから 時々あなたは 私の足元に 小さな石を置いて下さる そして つまづいた私は 思い出すのです いつもともにおられる あなたのことを     産経新聞 朝の詩    
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2月 17日 「他者の苦悩に共感する」とは

「他者の苦難に共感する」とはどういうことかという問いに対し、私は『妙法蓮華経』「如来寿量品」良医病子の喩にある言葉、「常懐悲感 心遂醒悟~常に悲感を懐いて、心、遂に醒悟す~」に答えがあると思います。 これは、あなたのその悲しみが、あなたをして必ず真実なるものに導くという意味です。ただしそのためには、その悲しみを抱き続けなければならないとします。これは一見、突き放したような物の言い方のように感じるやもしれませんが、自己と他者の課題を分けながら、横の関係の視点を持ち続ける大切さを現している言葉だと理解するからです。 かの大震災以来、優しいイメージを持つ「絆」という言葉を旗印に、他者に寄り添う、他者の苦難に共感するということが容易く発信されていることにいささかの違和感があります。方向性としてはいい、言葉としては受けいれやすい、でも、苦難の原点は思い通りにならないことにあります。 昨年の10月に、私はとてもつらい御葬儀をいたしました。故人様は、36歳の奥様でした。ご主人と受験を控えた中学校3年生と中学校2年生の年子の兄弟を遺しての旅立ちでした。伺えば、奥様は昨年の正月頃から胃が痛いと訴えていたそうです。けれども、病院には行かずに、市販の胃薬を飲んでいた。4月中旬、家族で東京ドームに行った日、「お腹がすいたから、お弁当を食べよう」と弁当を広げた時、奥様が呟いたそうです。「お腹がすいているのだけれども、なんだか食べる事ができない」 その時はじめて、これはおかしいと家族の誰もが思った。翌日病院で検査の結果は、癌が進行し、もってあと半年との宣告であったそうです。出棺の際の御主人のお言葉に、私も思わず涙いたしました。御主人はお位牌を力いっぱいに握りしめながら、絞り出すような声でこう仰いました。 「なぜ妻がこんな目にあわなければならないのですか。一生懸命生きてきて、優しい妻だった。それが、なぜこんな目に遭わなければならないのか解らない。誰か教えてください」 この問いへ、他者が答えるのは難しいことです。自分自身を納得させることはできても、今、この御主人に納得していただけるような答えは、だれも持たないでしょう。この苦難に共感するとは、簡単に言えるものではありません。 しかし、精進落としの席で「いまは悔しいけれど、時間が忘れさせてくれるよ」の言葉を耳にした時、今、私が僧侶として伝えなければならないことはこれだと確信しました。 時薬、日薬という言葉があるように時間が悲しみを癒すとも言われますが、その一方で、時間がたってから一気に悲しみに沈んでしまう方がいるなかで、悲しみを乗り越えるとか、悲しみから立ち直るという言葉は、本当はそぐわないと思います。 すなわち、寄り添うとはただその場にいることではなく、他者の悲しみや苦しみという言葉を借りた自らの煩悩に向き合う努力を意味し、共感とはただ頷くことではなく、他者と自らの埋まらない違いに戸惑いながらも、共に明るい方向へと進む意思だということ。 ですから、「常懐悲感 心遂醒悟~常に悲感を懐いて、心、遂に醒悟す~」悲しみは抱き続ける智慧と勇気を持つことが大切であり、自分自身の学習と訓練、智慧と勇気を深め、「だけど、生きる」「だけれども、生きる」の視点を共有すること、それが他者の苦難を共感することにつながるのではないかと考えます。
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2月 02日 青空

心は青空のようにありたいけれど、いつもそうとは限らない。 けれども、それを理由に大切な人の空まで曇らせたり、雨を降らせたりしてはならない。 花園流無相教会御詠歌 白隠禅師坐禅和讃の一節。 つつしみを おのが心の 根とすれば ことばの花は  みごと咲くなり 花は飾り花ではなく、根を持つ花でありたい。
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1月 09日 挫けない

今年いただいた年賀状の傑作。 どんなに素晴らしい名画よりも、どんなに素敵な宝石よりも、もっともっと大切なものを持っている。 どんな時でも、どんな苦しい場合でも、愚痴を言わない。 参ったなどと泣き言はいわない。 そんな一年を過ごしていきたい。     サマンサ小野会長 正月二日18時頃、近所のスーパーでの出来事。 賑わう店内に、大きな声が響いた。「万引きだ、捕まえろ」 二人の男が凄まじい勢いで、出入り口へと走る。 一人は万引きをした男、もう一人は、それを見つけた客の男。 しばらくして、客の男が、70歳を超えたと思われる男性を引き連れて得意げに店内に戻り、言い放った。 「店員さん、こいつは万引きをしました。」 ・・・トマト、三個。 彼の事情は知らない。動機も聞きたくはない。 ・・・挫けない。 もう道がないと思っても、案外、ないところにも道がある。 そう、何もないところからでも、はじめられる。
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1月 01日 平成27年 年頭

真言宗中興の祖、興教大師覚鑁が、腐敗した金剛峯寺の内紛に憂いを懐き、密嚴院において3年余り無言行を修行しました。そして、その直後、一筆のもとに書き上げたと言われるものが「密嚴院発露懺悔文」です。 内紛にあって、師はどちらかに与することなく、かといって、巻き込まれることを怖れ逃げ出すこともありませんでした。 自らに利がある方に肩入れをすることもなく、「阿保らしい」と高みの見物をするのでもなく、ただ無言の行をされました。 そして、その懺悔文に記されたのは他者の批判ではなく、自らの至らなさの叫びでした。 私たちは、自らのご縁で様々なサークルの中で生きています。 家庭、地域、会社、学校、友人、国、地域・・・ でも、そこはHappyなことばかりが起きるのではありません。。 離婚、騒動、派閥、いじめ、裏切り、戦争、紛争、たとえどんな事が起きたとしても・・・ その出来事を他人事としない姿勢を保ちたいものです。 この一年、共に逞しく歩みを進めましょう。 密嚴院発露懺悔文 我等懺悔す 無始よりこのかた 妄想に纏はれて衆罪を造る 身口意の業 常に顛倒して 誤って無量不善の業を犯す 珍財を慳悋して施を行ぜず 意に任せて放逸にして戒を持せず しばしば忿恚を起して忍辱ならず 多く懈怠を生じて精進ならず 心意散乱して坐禅せず 実相に違背して慧を修せず 恒に是の如くの六度の行を退して 還って流転三途の業を作る 名を比丘に假って伽藍を穢し 形を沙門に比して信施を受く 受くるところの戒品は忘れて持せず 学すべき律義は廃して好むことなし 諸佛の厭悪したもうところを慚じず 菩薩の苦悩するところを畏れず 遊戯笑語して徒らに年を送り 諂誑詐欺して空しく日を過ぐ 善友に随はずして癡人に親しみ 善根を勤めずして悪行を営む 利養を得んと欲して自徳を讃じ 勝徳の者を見ては嫉妬を懐く 無徳の人を見ては驕慢を生じ 富饒のところを聞いては希望を起す 貧乏の類を聞いては常に厭離す 故に殺し誤って殺す有情の命 顕はに取り密かに盗る他人の財 觸れても觸れずしても非梵行を犯す 口四意三互に相続し 佛を観念する時は攀縁を発し 経を読誦する時は文句を錯る もし善根を作せば有相に住し 還って輪廻生死の因と成る 行住坐臥知ると知らざると 犯すところの是の如くの無量の罪 今三宝に対して皆発露したてまつる 慈悲哀愍して消除せしめたまへ 皆悉く発露し尽く懺悔したてまつる ないし法界のもろもろの衆生 三業所作のかくの如くの罪 我皆相代って尽く懺悔したてまつる 更にまたその報ひを受けしめざれ
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12月 04日

文字通りあっという間の、2年間でした。 なんで、主人だけが、あんな目にあわなくては、いけなかったのか? みんなに好かれ、優しく真面目な人だったのに、何故? 「まだ、あなたは若いし、幸いに子供もいないから・・・」 そんな理由で、やり直しが出来ると、口をそろえたようにみんなに言われてしまうのは、私に隙があるからでしょうか。 何をもってしても埋められない心の隙間 母から、「彼は旅に出たと思いなさい」と言われた時、少し心が晴れました。 旅に出たのなら、また、必ず会えるって。 ・・・私事ながら、11月24日、伯父が亡くなりました。母の兄になります。 高松市で通夜葬儀。 泊まったホテルで流しっぱなしにしたテレビ。 あるCMに、「だけれども、生きる」という一句がありました。 何のCMかは分からなかったけれども、、「だけれども、生きる」という一句に響きました。 私たちは、それぞれに多くのものを抱えながら、挫けないで、諦めないで・・・ 「だけれども、生きる」お互いでいたいものです。
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11月 25日 ありがとう

お釈迦さまがあるとき、弟子の阿難に尋ねました。 「あなたは、人間に生まれたことをどのように思っていますか?」 すかさず、阿難は応えました。「はい。とても喜んでおります」 あなたは、人間に生まれたことを喜んでいますか。 実は、ここが私たちの出発点なんです。人間に生まれたことを喜ぶ視点。 人間に生まれたことをいじけたり、恨んだりしていても、私たちの人生ははじまらない。 お釈迦さまが、また、重ねて尋ねます。「では、あなたは人間に生まれたことをどのくらい喜んでおりますか?」 すると、阿難は答えに窮してしまいます。 たしかに、人間に生まれたのは喜んではいるけれども、どのくらい喜んでいるのかと言われたら、、、考えてしまいます。 私たちの人生、一日を振り返れば、いいことばかりではない。 時には、「ああ、もう何もかも嫌になった」という日もあれば、お酒を浴びるように飲まなきゃおさまらない日もあります。 答えに窮した阿難をみて、お釈迦さまは、「盲亀浮木の譬」と伝えられている話をされました。 「果てしなく広がる海の底に、目の見えない亀がいた。 その亀は、100年に1度、海面に、ぽっと顔を出すという。 ある日、その広い海には1本の丸太棒が、波に揺られ浮いていた。 その丸太棒の真ん中には、小さな穴があいていた」 広い海、100年に一度浮かび上がる目の見えない亀、漂う小さな穴のあいた丸太棒。 ここで、お釈迦様は仰います。 「阿難よ。 100年に1度浮かびあがるその目の見えない亀が、 浮かび上がった拍子に、丸太棒の穴にひょいっと頭を入れることが有ると思うか?」 阿難は驚いて答えます。 「お釈迦さま、そんなことは、とてもありえません」 すると、お釈迦様は間髪いれずに仰った。 「お前さん、絶対にない、と本当に言い切れるか?」 迷いながら、阿難は答えました。 「いえ、もしかしたら、もしかしたら、万が一、ひょっと頭を入れることがあるかもしれませんが、でも、それは、やはり、絶対にない、と言ってもいいくらいありえないと思います」 すると、お釈迦さまはこうお示しになられたというのです。 「阿難さんよ、私たちが人間に生まれることは、実はその亀が、丸太棒の穴に首を入れることよりも難しいことなんだ。 そのくらい、私たちの命が、今・ここにあるのは、有難いことなんだよ」 命の有難さを体感し、実感した言葉が、「ありがとう」 「今生きていること」、それは、とて有り難いこと。 条件なしに、有り難いこと。 だからこそ、有り難いこの命を喜ぶ、楽しむ、使う。 「私たちの命は有難いものだ」と心底思うところから伝える言葉、それが、ありがとうなのです。
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11月 10日 私儀

謹啓 深秋の候 皆様には益々のご清祥の段慶賀に存じます                                         私儀 五年余勤めました大本山總持寺を 十月二十八日に乞暇いたしました この間 一方ならぬご指導とご厚情を賜り 衷心より御礼申し上げます これから…

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10月 23日 行蔵

文字通り、穴があったら入りたいような失敗もする。 嵐のような叱責、言われたくなかった言葉、やり過ごす時間。 『法句経』 227 アトゥラよ。これは昔にも言うことであり、いまに始まることでもない。沈黙している者も非難され、多く語る者も非難され、すこしく語る者も非難される。世に非難されない者はいない。 228 ただ誹られるだけの人、またただ褒められるだけの人は、過去にもいなかったし、未来にもいないであろう、現在にもいない。 今日ほめて 明日悪く言う 人の口 なくも笑うも ウソの世の中         一休さん そう、雨が降らなければ、虹はでない。
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10月 10日 切<せつ>

「いつか・・・」「そのうち・・・」「きっと・・・」で、今年、45歳。 口にできなかった言葉、袖を通さなかった服、会えない人。 健康にに生きたいと願う自分自身の、その隣で、自分自身が病を作る。 死にたくないと生きている自分の、その隣で、自分自身が老いを作り、死を作る。 「いってらっしゃい」といつも通りに送り出したあの日。 まさか、それが最後の言葉になるとは、夢にも思わなかった。 こんなことになるのなら、、、こんなことになると知っていたのなら、、、 吾 常に ここに於いて 切なり
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