2月 16日 涅槃会
2月15日は、お釈迦様が入滅<にゅうめつ>された日、つまり、お亡くなりになられた日です。
お釈迦様が入滅に臨んで、垂れられた最後の説法だと伝えられているお経、『佛垂般涅槃略説教誡経』(佛遺教経)があります。
このお経には、戒の大切さ、及び、わがままな欲望のみの暮らしは、実は、苦でしかない、と示されています。
そして、八大人覚<はちだいにんがく>、大人として覚るべき八つの事、無求、知足、遠離、精進、不妄念、禅定,智慧、不戯論を説き、その教えを実行する事の大切さを強調されています。
頭で理解するだけではなく、実践こそが大切なんだ、と。
この世の在り方は無常であり、移り変わっていくものだけれども・・・
それは、悲しむべき事ではなく、実は、ありがたいの事なんだと、と。
なぜなら、無常であるからこそ、人として成長ができ、仏の教えに出会い、真実を知り得る事ができるのだ、と。
そして、ものの見方こそが、佛法であり、そのものの見方を正しく理解し、実践し、伝えていく時、そこに、お釈迦様が現前しているのだ、と。
真実のいのちは、決してなくならないのだ、と。
このお経は、禅門では、枕経や通夜にも諷誦されるお経のひとつです。
寒さと暑さ
飢えと渇えと
風と太陽の熱と
虻と蛇と
これらすべてのものに
うち勝って
犀<さい>の角<つの>のように
ただ独り歩め
『ブッダの言葉』 中村 元 訳
犀の角は、ひとつしかありません。
他の人からの毀誉褒貶に煩わされること無く、真っ直ぐに、佛の道を。
このブログがご縁となり、新たなご縁をいただきました。 葬儀や法事の相談を受けたり、また、法話の依頼をいただいたりするようになりました。 こんなブログでも、多い日には、300を超えるアクセスがあります。 こんな内容でも、支持するコメントを頂き、励まされております。 正直な話、恥ずか…
2月 06日 時の音
投稿日時 22:19
カテゴリ:
僧侶的 いま・ここ,
法話
by houe_admin
最近、お会いしたお二人です。 【一人目】 大きなお寺のご住職。大切なものは、大きな伽藍。 不惑の40代。ゴルフも、まだまだ、伸び盛り、との事。 奥様は、テニスとお茶に励み、ご子息は、宗門の学校に入れた、とご自慢。 得意顔して人生を語るおせっかい・・・ そこには、善人面して名誉欲が…
不立文字 教外別伝 直指人心 見性成仏
これは,達磨大師の言葉と伝えられています。
不立文字<ふりゅうもんじ>とは、
禅は、文字や言語では現す事ができない。
坐禅をする体験によってのみ、体得できるものである。
教外別伝<きょうげべつでん>とは、
文字言説による教説の外に、心から心に禅の真髄を伝えてきた事。
以心伝心と同義。
直指人心<じきしにんしん>とは、
外にばかり目を向けず自分の心をよく見つめなさいという事。
思考や分析をいくら重ねても、自分の心をつかめるものではない。
見性成仏<けんしょうじょうぶつ>とは、
自分の本性をよく見つめれば、仏性に出会い、見<まみ>え、自分が自分になることができる事。
川崎いのちの電話公開講座 養老孟司氏講演会『死の壁をこえる』が、昨日、開催されました。
その要旨。
人には、本来、感覚の世界と概念(意識)の世界がある。
感覚の世界とは、違いの世界であり、
概念の世界とは、同じの世界である。
現代人は、概念の世界にのみに価値を認めようとする。
概念の根会とは、言葉の世界。言葉は、人や社会を均一化してしまう。
しかし、頭で考える事に、どれだけの意味があると言うのか?
概念の世界のみを相手にする事で、結局は、その概念に殺されてしまう。
大切な事は、感覚を開く事。
感覚には、周りの世界を見る働きと自分の体を知る働きがある。
言葉や文字、つまり、概念で坐禅を理解しても、それは、理解でしかない。
大切な事、それは、坐る事。
禅の坊主にとっての感覚とは、坐禅。
【原文】 縦読恒沙書、不如持一句。 有人若相問、如実知自心。 良寛 【読み下し】 縦へ恒沙の書を読むとも、一句を持するに如かず。 人有り若し相問はば、如実に自の心を知れ。 【補足】 数巻の書物をよんでも、心得が違うと、野郎の本箱字引になるから、ここを間違わぬようにすべし。 勝 小…
禅門の多くのお寺の玄関には、脚下照顧と書かれた物があります。
脚下照顧とは、足元を看よ、との意。
徒に、外に向かって、真理とか、真実とかを求めるのではなく・・・
その、あなたの、そのお足元。
そう、そこに。
いま、ここに。
宝の山がありますよ、との教え。
足元を看る。
その足元とは、あなた自身のお足元。
他人の足元ばかり、見てては、だめですよね。
1月 24日 布施
一般に、布施という言葉は、葬儀や法事に対するお礼として用いられています。
お礼の気持ちがあるのなら、まだ、話にもなりますが、現実には、読経に対しての対価、戒名に対しての代金のように思う方が多いようです。
お布施はいくらですか?
お気持ち結構です。
こんなやり取りも、今じゃ古臭いみたいで・・・。
はい、院号の葬儀は200万円で、その中陰忌の法事は15万円です。
と、答えるのが親切みたいで・・・。
さばけたお寺は、メニューよろしく、料金表を張り出す。
檀家という名の顧客は、お金を熨斗袋に包まず、裸で支払う。
そのうち、支払いは、カードで。ローンなんか組んだりして・・・。
【明朗なお布施】と、葬儀社さんが宣伝して・・・。
【お布施の価格破壊】と、僧侶派遣業社さんも広告を・・・。
いつの間にか、お気持ちがどっかに行ってしまった。
いつの間にか、お気持ちがいらなくなってしまった。
『修証義』というお経です。
〔原文〕
布施というは貪らざるなり、
我物に非ざれども布施を障えざる道理あり、
其物の軽きを嫌わず、其功の実なるべきなり、
然あれば則ち一句一偈の法をも布施すべし、
此生佗生の善種となる、
一銭一草の財をも布施すべし、
此世佗世の善根を兆す、
法も財なるべし、財も法なるべし、
但彼が報謝を貪らず、自らが力を頒つなり、
舟を置き橋を渡すも布施の檀度なり、
治生産業固より布施に非ざること無し。
〔意訳〕
布施というのは、貪らない事です。
施すべき物が無いとしても、布施の意義を損なうものではないのです。
施す物の軽少は問題ではなく、布施の心が大切なのです。
それ故に、一句一偈の教えをも布施すべきです。
今生はもとより来世にあっても善根の種まきとなるでしょう。
たった一銭であっても、わずかな物であっても布施の心を持って施すべきです。
それが、現世と来世に実を結ぶ尊い縁となるのです。
法と財とは別物ではありません。元来、一つものの裏表です。財法二施の功徳は無量なのです。
ただ、相手からの代償を求めないで、自分のもてる力量に応じて布施することが何よりも大切なのです。
このような布施の心をもってするならば、川に渡し舟を寄付したり、橋を架けたりすることも布施なのです。
社会の仕事としてあらゆる産業にはげむのも、本来は、布施の心に基づくものであり、実は、布施にほかならないのです。
金儲けだけのための仕事は続かない。
金で買えない物はない、と毒づいた実業家は、結局、自分の人生を買う事はできなかった。
働くとは、傍を楽にすること。
仕事は、金儲けではなく、布施の行の実践。
以前、勤めてたお寺での事。
父親が亡くなり、葬儀の依頼に来た遺族。
お金持ちの住職さんは、メニューを指差して、50万円を要求。
そんなに、払えない、余裕がない、と、懇願する遺族。
いくらまでなら出せるか、と尋ねる住職。
半分の25万円が精一杯です、と遺族。
わかりました、じゃあ、こういたしましょう、と、住職が出した提案。
通夜か葬儀か、どちらかだけにいたしましょう。
まず、坊主のお前らこそが、布施の行をしろ、と嗤われる。
布施というは貪らざるなり。
布施というは貪らざるなり。
淡雪の 中にたちたる 三千大千世界
またその中に 沫雪ぞ降る
良寛
三千大千世界とは、仏教の宇宙観です。
須弥山を中心とした小世界を千倍したものを小千世界、それを千倍したものを中千世界、さらにそれを千倍にしたものを三千大千世界という。つまり、この世界には合計で1000×1000×1000=10億の世界があると説かれてあります。
今、私たちの生きているこの世は、目には見えないけれども、実は、とても広く、とても深く、そして、とても大きな世界なのです。
地球上の、日本の、神奈川県の、川崎市の、溝の口の、某所にいるけれども、その命は、三千大千世界を生きているのです。
現実の、溝の口での、せこせこした生活のみが、全てのような気がするかもしれないけれども、実は、この一挙手一投足が、この一呼吸が、三千大千世界と繋がっている。
せこせこした暮らしの、せこせこした命のみに執着するのではなく、
大きな大きな命を自覚しながら、こころゆたかに人としての生を生きる。
雪が、ひらひらと舞う。
その一片、その一片に。
三千大千世界がある。
その三千大千世界の中にも、また、雪が、ひらひらと舞っている。
その雪を 拝まないでいられない 良寛さん。
真実は、日々のこの暮らしの中にこそある。
気付くか、気付かぬか。
気付くか、気付けぬか。
真実は、遥か彼方にあるのではなく、いま・ここにある。
超然として 天にまかせ
悠然として 理知を楽しむ
厳然として 自らを慎み
靄然として 人に接す
毅然として 節を持し
泰然として 難に処す
良寛 「六然観」
投稿日時 17:00
カテゴリ:
僧侶的 いま・ここ,
法話
by houe_admin
みんな 心配いらないよ
みんな 心配いらないよ
何を心配しているの
自分が生まれたと思って心配しているのでしょう
生まれたんじゃないよ
生まれたんじゃないよ
<どういうことでしょう・・・・・>
もともと全部 授かっていた いのちなのです
ひょっこり生まれてきたんじゃないんだよ
はじめのはじめからいらっしゃった あなたです
真のいのちは常にひとつ
元来 授かっているいのち
<どこに・・・・・>
いつも 今ここ 一切に
一切に我がいのちは充満せり
縁によって 現れてくるものなのです
・・・・・ただ 現れる
縁によって しばらく姿を隠しても
何処へも行かない縁を
必ず現れてくる縁を
みんな一人ひとり 作っているのだから
必ず現れてくる
いのちは永遠なり
不滅のいのちの主人公なり
無くなっておしまいというようないのちではありません
さびしい・・・
かなしい・・・
つらい・・・
不安なものは ないよ
みんな 心配いらないよ
みんな 心配いらないよ