祥月とは、亡くなった月の事。
命日とは、亡くなった日の事。
祥月命日は、年に一度の大切な日。
亡くなった日を、西洋では、死亡日や追憶の日と言う。
しかし、仏教では、命日。
その人の命の日として受け止める。
その日まで頑張って生きてきたのだ、と受け止める。
友亡きを 友として飲む 酒やよし
投稿日時 23:24
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僧侶的 いま・ここ,
法話
by houe_admin
皆さん、こんにちは。私は法慧と申します。
今日は11月15日、ずいぶんと、寒くなりましたね。
本山も、紅葉や銀杏が色づきまいして、とても綺麗なんですよ。
ところで、あと、2日すれば、11月17日。
皆さん、この日は何の日だかご存知でしょうか?
実は・・・私の誕生日なんです。
私はいくつに見えますか?
そう、見ての通り、18歳です。気持ちは、18歳です。
頭の中も、ものの考え方も、おそらく、18歳の時から変わってないような気もしてます。
先日、5日ばかり、本山に休みを申請しまして、東北地方に行ってきました。仙台と山形。山形は、友人の結婚式でした。
結婚式は、新郎新婦ともに、27歳。
私は、2日後に30歳ですから、順番で言えば、私の方が先のはずなんですけども、ご縁がないのか、面食いが仇なのか・・・。
皆さんは、仏前結婚式をご存知でしょうか?
私も、今回はじめて、見てまいりました。
新郎はお坊さんの格好、新婦は白無垢の角隠し。
まぁ、いくら白いのを着たって、過去まで白くなるはずもありませんし、角を隠すということは、裏返して言えば、角がありますよって事ですよね。
その新郎新婦、ご詠歌で入場し、お決まりの三々九度。そして、二人でお数珠の交換をして、ご本尊様に、このように、誓いの言葉を述べました。
「幾千年の時の流れの中で、同じ時代に生まれ、ふたり巡り合い、ひかれ、愛し合えた事の喜びを忘れることなく、これからの、日々を過ごしてまいります。」
どうでしょうか?皆さん。
はるか昔から、果て無き未来の時の流れの中で、出会えた喜びを忘れない、と、この二人は、誓ったのです。
しかし、考えて見ますと、この喜びは、なにも、愛し合う二人のみに与えられたものでは、ないはずです。
この喜びは、ここにもあります。
つまり、今日、皆さんと私が、今、こうしてお会いしている事も、実は、幾千年の時の流れの、この今に、お会いしているのですから。
こう思いますと、この今というものは、たいへんな事ですよね。
例えば、皆さんも、このホームで一緒に暮らされていますが、この今に集まるのは、よほどのご縁がなければならなかったはずです。
この今に、こうして集えるご縁。
このご縁に手を合わすことができれば、自分の周りにいる人々を、取り巻く環境を大切にしないではおられないはずです。
人間は、人を愛する事ができると同時に、人を憎む事もできます。
好きだ嫌いだ、惚れたはれた、恋だ愛だと。
その場だけの感情だけに振り回されて、一番大切な出会いの意味、ご縁の深さを忘れてはもったいないと思うのです。
あの新郎新婦、結婚したとはいえ、これから、罵り合ったり、喧嘩もするでしょう。顔も見たくないと、言い出すかもしれません。
しかし、そんな時にこそ、出発点である、出会いの意味を思い起こせれば、例え、違う道を歩む結果となったとしても、お互いを尊重する事ができるでしょう。
道元禅師は、
「徳あるは讃むべし、徳なきは憐れむべし」と申されておられます。
人と喧嘩したり、人を嫌ったりするのは、簡単です。
大切な事は、相手を憎むのでなく、憐れむこと。つまり、あなたが、仏様の心になって、慈しむのです。
出会いの意味に気付き、それを忘れなければ、毎日が喜びとなって現れてくるでしょう。いま・ここを大切にできる人となるでしょう。
平成11年11月 老人ホームにて
投稿日時 20:35
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法話
by houe_admin
本田美奈子.さんの葬儀・告別式が9日に行われました。
多くの方が、その死を悼み、その不条理さに涙しました。
また、その才能を惜しみ、その人柄を偲ばれたようです。
38歳はあまりにも早い・・・と。
ファンの方の中に、こう、コメントしていた人がいました。
「思い出をありがとう。あなたの事を絶対に忘れない。天国でも大好きな歌を歌ってください。」
突然の訃報に驚いての発言なのでしょう。
でも、これで終わりとするでしょうか?
これで、この事を片付けてしまうのでしょうか?
もっと、感じ取らなければならない事が、学ばねばならない事が、そして、気付かなければならない事があると思うのです。
人の命は、息を引き取れば終わりです。
つまり、この呼吸が止まれば、終わりなのです。
そして、この呼吸の保証はどこにもありません。
本来、人の命は、それほど、儚いものなのです。
だからこそ、この今が尊いのです。
この命を、この今を、私たちは生きている。
まず、この事を真摯に受け止めなければならないと思うのです。
そして、簡単に、「天国に行った」と言ってもいいのでしょうか?
何某かの信仰を持ったうえでの「天国に行った」は結構でしょう。
しかし、ただ、「天国に行った」と言うのは、思考の放棄です。
じゃあ、どこにいったのか?
この問いを発する感性こそが、大切だと思います。
そして、その答えは、思索の遊戯に陥らないという信念の下に、自ずから導かれてくるはずです。
人の命は、確かに、儚いものだけれども、
本当は・・・
私たちは、一回こっきりの、小さな命を生きているのではない。
大きな、大きな、ひとつの命を生きている。
心より、ご冥福をお祈り申し上げます。
投稿日時 23:53
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by houe_admin
私は今まで何回も法事に出かけていますが、有難い法話・・・・一度も聞いた事がありません。 普通はお経の後ご住職様は法話をしていただけるのですか? それは、お願いしないといけないのですか? と、コメントを頂きました。 お通夜やご葬儀、そして、ご法事。 お話しなければならない事が、たく…
投稿日時 21:47
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これは、岩手県の匿名希望さんからのお手紙です。 お祖父様の7回忌のご法事に、若い副住職さんがいらっしゃいました。 お経が終わり、知人の方々が故人との思い出話などをして、さて、副住職さまからのご法話となりました。 おもむろに、副住職さまが話をされます。 「エー、私からの法話ですが、…
11月 03日 円成
両本山での瑞世、無事に円成いたしました。 円成<えんじょう、と読みます>。 円成とは物事の完成、まどかになる事。円満成就の意です。 その時々において、その折々にふれて、 それが、大きな円であったり、また、小さな円であったり。 ひとつひとつが、まどかなる世界。
本日より、大本山永平寺に瑞世に行きます。
途中、吉峰寺<きっぽう寺と読みます>に拝宿し、永平寺へ。
そして、得度をしたお寺に、お礼の拝登。帰りは、11月1日の予定。
コメントに、瑞世とは何?とありました。説明不足でしたね。
一朝<いっちょうと読みます>の住職。
つまり、両本山において、文字通り、その日の朝のお勤めの導師を務めることです。
曹洞宗では、和尚になるために、いくつかの段階を踏まなければなりません。この段階とは資格とも、ステップアップとも言い換えられるでしょう。
得度<とくど>をする。これは、出家する事。
安居<あんご>をする。これは、専門僧堂において修行をする事。
首座<しゅそ>をする。これは、他の修行僧の先頭に立ち修行する事。
法戦<ほっせん>をする。これは、首座が他の修行僧と問答する事。
嗣法<しほう>をする。これは、師僧より法を嗣ぐ事。
大まかにあげれば、以上ですが、これらを踏まえた上で、瑞世となります。いわば、一人前になるための仕上げの行となります。
もちろん、修行に終わりはありませんが。
曹洞宗を開かれた道元禅師、それを広めた瑩山禅師。
永平寺は道元禅師、総持寺は瑩山禅師が開かれた寺院です。
その両大本山で導師を務めるのは、多くの僧侶にとって一生に一度のことです。瑞世は、曹洞宗僧侶としての報恩の誓いの場となります。
曹洞宗においては、本山がふたつあります。 福井県の大本山永平寺と神奈川県の大本山総持寺。 曹洞宗の僧侶は、この両本山に、それぞれ一泊し、一朝の住職を務める瑞世<ずいせ、と読みます>を行じます。 私は先週末に、大本山総持寺において瑞世をし、今週末に大本山永平寺で瑞世します。 曹洞宗…
投稿日時 10:18
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by houe_admin
たとえ、志半ばで倒れたとしても。 たとえ、物心つくまえであったとしても。 たとえ、百まで生きられたとしても。 必ず、死は訪れます。 いや、既に、生の中に死は含まれている。 じゃあ、どうせ死ぬのなら、早く死じまえ。 じゃあ、どうせ1回こっきり命だから、好きにするさ。 これじゃあ、幼…
投稿日時 17:54
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by houe_admin
出家して間もない頃の秋の黄昏時でした。 あるお寺の前で托鉢をしていた時、ふと、目に留まった伝道掲示板に、良寛さんの詩が書いてありました。 焚くほどは 風が持てくる 落ち葉かな これを見たとき、なんとも言いようのない感動と深い喜びを得ました。 なんだ、これで良かったんだ、と。 …