大童法慧 | 僧侶的 いま・ここ
何かを得ようとするのではなく 何かを捨ててみよう
大童法慧,曹洞宗,僧侶,祈祷,相談,生き方,悩み
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11月 19日 祥月命日

祥月とは、亡くなった月の事。 命日とは、亡くなった日の事。 祥月命日は、年に一度の大切な日。 亡くなった日を、西洋では、死亡日や追憶の日と言う。 しかし、仏教では、命日。 その人の命の日として受け止める。 その日まで頑張って生きてきたのだ、と受け止める。 友亡きを 友として飲む 酒やよし
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11月 15日 時の共時性について

皆さん、こんにちは。私は法慧と申します。 今日は11月15日、ずいぶんと、寒くなりましたね。 本山も、紅葉や銀杏が色づきまいして、とても綺麗なんですよ。 ところで、あと、2日すれば、11月17日。 皆さん、この日は何の日だかご存知でしょうか? 実は・・・私の誕生日なんです。 私はいくつに見えますか? そう、見ての通り、18歳です。気持ちは、18歳です。 頭の中も、ものの考え方も、おそらく、18歳の時から変わってないような気もしてます。 先日、5日ばかり、本山に休みを申請しまして、東北地方に行ってきました。仙台と山形。山形は、友人の結婚式でした。 結婚式は、新郎新婦ともに、27歳。 私は、2日後に30歳ですから、順番で言えば、私の方が先のはずなんですけども、ご縁がないのか、面食いが仇なのか・・・。 皆さんは、仏前結婚式をご存知でしょうか? 私も、今回はじめて、見てまいりました。 新郎はお坊さんの格好、新婦は白無垢の角隠し。 まぁ、いくら白いのを着たって、過去まで白くなるはずもありませんし、角を隠すということは、裏返して言えば、角がありますよって事ですよね。 その新郎新婦、ご詠歌で入場し、お決まりの三々九度。そして、二人でお数珠の交換をして、ご本尊様に、このように、誓いの言葉を述べました。 「幾千年の時の流れの中で、同じ時代に生まれ、ふたり巡り合い、ひかれ、愛し合えた事の喜びを忘れることなく、これからの、日々を過ごしてまいります。」 どうでしょうか?皆さん。 はるか昔から、果て無き未来の時の流れの中で、出会えた喜びを忘れない、と、この二人は、誓ったのです。 しかし、考えて見ますと、この喜びは、なにも、愛し合う二人のみに与えられたものでは、ないはずです。 この喜びは、ここにもあります。 つまり、今日、皆さんと私が、今、こうしてお会いしている事も、実は、幾千年の時の流れの、この今に、お会いしているのですから。 こう思いますと、この今というものは、たいへんな事ですよね。 例えば、皆さんも、このホームで一緒に暮らされていますが、この今に集まるのは、よほどのご縁がなければならなかったはずです。 この今に、こうして集えるご縁。 このご縁に手を合わすことができれば、自分の周りにいる人々を、取り巻く環境を大切にしないではおられないはずです。 人間は、人を愛する事ができると同時に、人を憎む事もできます。 好きだ嫌いだ、惚れたはれた、恋だ愛だと。 その場だけの感情だけに振り回されて、一番大切な出会いの意味、ご縁の深さを忘れてはもったいないと思うのです。 あの新郎新婦、結婚したとはいえ、これから、罵り合ったり、喧嘩もするでしょう。顔も見たくないと、言い出すかもしれません。 しかし、そんな時にこそ、出発点である、出会いの意味を思い起こせれば、例え、違う道を歩む結果となったとしても、お互いを尊重する事ができるでしょう。 道元禅師は、 「徳あるは讃むべし、徳なきは憐れむべし」と申されておられます。 人と喧嘩したり、人を嫌ったりするのは、簡単です。 大切な事は、相手を憎むのでなく、憐れむこと。つまり、あなたが、仏様の心になって、慈しむのです。 出会いの意味に気付き、それを忘れなければ、毎日が喜びとなって現れてくるでしょう。いま・ここを大切にできる人となるでしょう。 平成11年11月 老人ホームにて
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11月 12日 本田美奈子.さんの事

本田美奈子.さんの葬儀・告別式が9日に行われました。 多くの方が、その死を悼み、その不条理さに涙しました。 また、その才能を惜しみ、その人柄を偲ばれたようです。 38歳はあまりにも早い・・・と。 ファンの方の中に、こう、コメントしていた人がいました。 「思い出をありがとう。あなたの事を絶対に忘れない。天国でも大好きな歌を歌ってください。」 突然の訃報に驚いての発言なのでしょう。 でも、これで終わりとするでしょうか? これで、この事を片付けてしまうのでしょうか? もっと、感じ取らなければならない事が、学ばねばならない事が、そして、気付かなければならない事があると思うのです。 人の命は、息を引き取れば終わりです。 つまり、この呼吸が止まれば、終わりなのです。 そして、この呼吸の保証はどこにもありません。 本来、人の命は、それほど、儚いものなのです。 だからこそ、この今が尊いのです。 この命を、この今を、私たちは生きている。 まず、この事を真摯に受け止めなければならないと思うのです。 そして、簡単に、「天国に行った」と言ってもいいのでしょうか? 何某かの信仰を持ったうえでの「天国に行った」は結構でしょう。 しかし、ただ、「天国に行った」と言うのは、思考の放棄です。 じゃあ、どこにいったのか? この問いを発する感性こそが、大切だと思います。 そして、その答えは、思索の遊戯に陥らないという信念の下に、自ずから導かれてくるはずです。 人の命は、確かに、儚いものだけれども、 本当は・・・ 私たちは、一回こっきりの、小さな命を生きているのではない。 大きな、大きな、ひとつの命を生きている。 心より、ご冥福をお祈り申し上げます。
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11月 07日 ご指摘  〔2〕

私は今まで何回も法事に出かけていますが、有難い法話・・・・一度も聞いた事がありません。 普通はお経の後ご住職様は法話をしていただけるのですか? それは、お願いしないといけないのですか? と、コメントを頂きました。 お通夜やご葬儀、そして、ご法事。 お話しなければならない事が、たく…

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11月 05日 大法重きが故に

これは、岩手県の匿名希望さんからのお手紙です。 お祖父様の7回忌のご法事に、若い副住職さんがいらっしゃいました。 お経が終わり、知人の方々が故人との思い出話などをして、さて、副住職さまからのご法話となりました。 おもむろに、副住職さまが話をされます。 「エー、私からの法話ですが、…

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11月 03日 円成

両本山での瑞世、無事に円成いたしました。 円成<えんじょう、と読みます>。 円成とは物事の完成、まどかになる事。円満成就の意です。 その時々において、その折々にふれて、 それが、大きな円であったり、また、小さな円であったり。 ひとつひとつが、まどかなる世界。

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10月 27日 大本山永平寺瑞世

本日より、大本山永平寺に瑞世に行きます。 途中、吉峰寺<きっぽう寺と読みます>に拝宿し、永平寺へ。 そして、得度をしたお寺に、お礼の拝登。帰りは、11月1日の予定。 コメントに、瑞世とは何?とありました。説明不足でしたね。 一朝<いっちょうと読みます>の住職。 つまり、両本山において、文字通り、その日の朝のお勤めの導師を務めることです。 曹洞宗では、和尚になるために、いくつかの段階を踏まなければなりません。この段階とは資格とも、ステップアップとも言い換えられるでしょう。 得度<とくど>をする。これは、出家する事。 安居<あんご>をする。これは、専門僧堂において修行をする事。 首座<しゅそ>をする。これは、他の修行僧の先頭に立ち修行する事。 法戦<ほっせん>をする。これは、首座が他の修行僧と問答する事。 嗣法<しほう>をする。これは、師僧より法を嗣ぐ事。 大まかにあげれば、以上ですが、これらを踏まえた上で、瑞世となります。いわば、一人前になるための仕上げの行となります。 もちろん、修行に終わりはありませんが。 曹洞宗を開かれた道元禅師、それを広めた瑩山禅師。 永平寺は道元禅師、総持寺は瑩山禅師が開かれた寺院です。 その両大本山で導師を務めるのは、多くの僧侶にとって一生に一度のことです。瑞世は、曹洞宗僧侶としての報恩の誓いの場となります。
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10月 24日 大本山総持寺瑞世

曹洞宗においては、本山がふたつあります。 福井県の大本山永平寺と神奈川県の大本山総持寺。 曹洞宗の僧侶は、この両本山に、それぞれ一泊し、一朝の住職を務める瑞世<ずいせ、と読みます>を行じます。 私は先週末に、大本山総持寺において瑞世をし、今週末に大本山永平寺で瑞世します。 曹洞宗…

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10月 21日 別れの意味 〔2〕

たとえ、志半ばで倒れたとしても。 たとえ、物心つくまえであったとしても。 たとえ、百まで生きられたとしても。 必ず、死は訪れます。 いや、既に、生の中に死は含まれている。 じゃあ、どうせ死ぬのなら、早く死じまえ。 じゃあ、どうせ1回こっきり命だから、好きにするさ。 これじゃあ、幼…

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10月 19日 風と落ち葉

出家して間もない頃の秋の黄昏時でした。 あるお寺の前で托鉢をしていた時、ふと、目に留まった伝道掲示板に、良寛さんの詩が書いてありました。 焚くほどは  風が持てくる  落ち葉かな これを見たとき、なんとも言いようのない感動と深い喜びを得ました。 なんだ、これで良かったんだ、と。 …

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