大童法慧 | 僧侶的 いま・ここ
何かを得ようとするのではなく 何かを捨ててみよう
大童法慧,曹洞宗,僧侶,祈祷,相談,生き方,悩み
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僧侶的 いま・ここ




2月 22日 インド佛跡巡礼

明日、2月23日より3月3日までの9日間、インド佛跡巡礼に行ってきます。 お釈迦様の七大聖地を訪ねる旅です。 釈尊の七大聖地とは・・・ 1、ルンビニ        生誕の地 2、ブタガヤ        成道の地 3、サールナート     初転法輪の地 4、クシナガラ       …

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2月 21日 お寺の在り方 僧侶の生き方

ある方から、下記のような問いを頂きました。 先日 親父の祥月命日(1月4日)にお参りをお寺にお願いしたら 1月5日までお休みなので その後にして欲しいとの連絡が寺からありました。 ご意見を伺いたいのです。 以前、私が勤めていたお寺は・・・ 電話の受付時間は、9時から17時まででした。 友引の前日及び、友引の午前中は、休みでした。 歴史もあり伽藍も大きな名刹で、霊園も経営し会館もありました。 しかし、お葬式やご法事以外に、全く、人が来る事のないお寺でした。 そのおかげか、表立ってのクレームは、多くありませんでした。 お寺の在り様は、宗旨や宗派に関らず、ご住職の見識次第だと思います。 もちろん、それを支える檀信徒の方々の協力は言うを俟ちません。 お寺の収入だけで維持していけるお寺もあれば、兼職しなければ生活もできないお寺もあります。それは、概ね、檀信徒の数に左右されます。 裕福なお寺の事を肉山<にくさん>といい、貧しいお寺の事を骨山<こっさん>とよびます。 最近のお寺は、その存在価値を見直すため、人をお寺に集める試みが数多くなされています。 例えば、勉強会や坐禅会を開いたり、コンサートを開催したり、落語会を催したり・・・実に、様々なイベントがあります。 まず、お寺に人を集めることによって、地域社会のコミュニティの核になろうと努めています。 社会福祉事業に熱心に取り組むご住職も少なくありません。 不登校やひきこもりの子供を預かり、共に生活しながら、自立を支援するご住職もいらっしゃいます。 24時間お寺にいつでもどうぞ、と宣言し、悩み苦しむ人を受け入れる体制をとられているご住職もおられます。 戒名を売ることだけを目的とした商売をしている人もいます。 お袈裟や衣の色や、持ち物の値段ばかりを気になさるお洒落な人もいます。 数回の練習で、得度もしていない素人さんに葬式や法事をさせる人もいます。 繰り返し申し上げますが、お寺の在り方は、ご住職の見識次第であります。 見識とは、僧侶としていかに生きるか、だと思います。 そして、その見識を、お檀家さんが受け入れるか否か、になるのでしょう。 私自身はと申しますと・・・ 何にもならない事を、命懸けでするお坊さんになりたいですね。 坐禅も朝課も、考えようによっては、ちっとも、お金にはならないし、社会福祉のように、直接、人に手を差し伸べる事もありません。 じゃあ、坐禅や朝課が意味ないのか? そうではない。決して、そうではありません。 その一見、無価値で役に立っていないところに、実は、かけがえのない、何ものにも代えられない、いのちの風光が輝き、この世界を遍く照らし続けている。 そんな、山の佛法を、僧侶としての生き方にしたいですね。 日々の暮らしの中で、あたりまえに、為すことを成し、坐り、祖録に親しみ、縁ある方々を大切にする禅僧になりたい。 ちょっと、お酒は飲むけれど・・いや、かなり飲むけれど・・・ あなたが、善し悪しの表層のみに捉われない事を祈ります。 お父様への思いやご供養を大切にしながら、真実のいのちがあることを、自分を高めていく世界があることを、どうか、忘れないでいただきたいのです。
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2月 16日 涅槃会

2月15日は、お釈迦様が入滅<にゅうめつ>された日、つまり、お亡くなりになられた日です。 お釈迦様が入滅に臨んで、垂れられた最後の説法だと伝えられているお経、『佛垂般涅槃略説教誡経』(佛遺教経)があります。 このお経には、戒の大切さ、及び、わがままな欲望のみの暮らしは、実は、苦でしかない、と示されています。 そして、八大人覚<はちだいにんがく>、大人として覚るべき八つの事、無求、知足、遠離、精進、不妄念、禅定,智慧、不戯論を説き、その教えを実行する事の大切さを強調されています。 頭で理解するだけではなく、実践こそが大切なんだ、と。 この世の在り方は無常であり、移り変わっていくものだけれども・・・ それは、悲しむべき事ではなく、実は、ありがたいの事なんだと、と。 なぜなら、無常であるからこそ、人として成長ができ、仏の教えに出会い、真実を知り得る事ができるのだ、と。 そして、ものの見方こそが、佛法であり、そのものの見方を正しく理解し、実践し、伝えていく時、そこに、お釈迦様が現前しているのだ、と。 真実のいのちは、決してなくならないのだ、と。 このお経は、禅門では、枕経や通夜にも諷誦されるお経のひとつです。 寒さと暑さ 飢えと渇えと 風と太陽の熱と 虻と蛇と これらすべてのものに うち勝って 犀<さい>の角<つの>のように ただ独り歩め 『ブッダの言葉』 中村 元 訳 犀の角は、ひとつしかありません。 他の人からの毀誉褒貶に煩わされること無く、真っ直ぐに、佛の道を。
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2月 11日 一得一失

このブログがご縁となり、新たなご縁をいただきました。 葬儀や法事の相談を受けたり、また、法話の依頼をいただいたりするようになりました。 こんなブログでも、多い日には、300を超えるアクセスがあります。 こんな内容でも、支持するコメントを頂き、励まされております。 正直な話、恥ずか…

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2月 06日 時の音

最近、お会いしたお二人です。 【一人目】 大きなお寺のご住職。大切なものは、大きな伽藍。 不惑の40代。ゴルフも、まだまだ、伸び盛り、との事。 奥様は、テニスとお茶に励み、ご子息は、宗門の学校に入れた、とご自慢。 得意顔して人生を語るおせっかい・・・ そこには、善人面して名誉欲が…

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2月 04日 不立文字

不立文字 教外別伝 直指人心 見性成仏 これは,達磨大師の言葉と伝えられています。 不立文字<ふりゅうもんじ>とは、 禅は、文字や言語では現す事ができない。 坐禅をする体験によってのみ、体得できるものである。 教外別伝<きょうげべつでん>とは、 文字言説による教説の外に、心から心に禅の真髄を伝えてきた事。 以心伝心と同義。 直指人心<じきしにんしん>とは、 外にばかり目を向けず自分の心をよく見つめなさいという事。 思考や分析をいくら重ねても、自分の心をつかめるものではない。 見性成仏<けんしょうじょうぶつ>とは、 自分の本性をよく見つめれば、仏性に出会い、見<まみ>え、自分が自分になることができる事。 川崎いのちの電話公開講座 養老孟司氏講演会『死の壁をこえる』が、昨日、開催されました。 その要旨。 人には、本来、感覚の世界と概念(意識)の世界がある。 感覚の世界とは、違いの世界であり、 概念の世界とは、同じの世界である。 現代人は、概念の世界にのみに価値を認めようとする。 概念の根会とは、言葉の世界。言葉は、人や社会を均一化してしまう。 しかし、頭で考える事に、どれだけの意味があると言うのか? 概念の世界のみを相手にする事で、結局は、その概念に殺されてしまう。 大切な事は、感覚を開く事。 感覚には、周りの世界を見る働きと自分の体を知る働きがある。 言葉や文字、つまり、概念で坐禅を理解しても、それは、理解でしかない。 大切な事、それは、坐る事。 禅の坊主にとっての感覚とは、坐禅。
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2月 01日 言の葉 〔5〕

【原文】 縦読恒沙書、不如持一句。 有人若相問、如実知自心。 良寛 【読み下し】 縦へ恒沙の書を読むとも、一句を持するに如かず。 人有り若し相問はば、如実に自の心を知れ。 【補足】 数巻の書物をよんでも、心得が違うと、野郎の本箱字引になるから、ここを間違わぬようにすべし。 勝 小…

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1月 29日 脚下照顧

禅門の多くのお寺の玄関には、脚下照顧と書かれた物があります。 脚下照顧とは、足元を看よ、との意。 徒に、外に向かって、真理とか、真実とかを求めるのではなく・・・ その、あなたの、そのお足元。 そう、そこに。 いま、ここに。 宝の山がありますよ、との教え。 足元を看る。 その足元とは、あなた自身のお足元。 他人の足元ばかり、見てては、だめですよね。
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1月 24日 布施

一般に、布施という言葉は、葬儀や法事に対するお礼として用いられています。 お礼の気持ちがあるのなら、まだ、話にもなりますが、現実には、読経に対しての対価、戒名に対しての代金のように思う方が多いようです。 お布施はいくらですか? お気持ち結構です。 こんなやり取りも、今じゃ古臭いみたいで・・・。 はい、院号の葬儀は200万円で、その中陰忌の法事は15万円です。 と、答えるのが親切みたいで・・・。 さばけたお寺は、メニューよろしく、料金表を張り出す。 檀家という名の顧客は、お金を熨斗袋に包まず、裸で支払う。 そのうち、支払いは、カードで。ローンなんか組んだりして・・・。 【明朗なお布施】と、葬儀社さんが宣伝して・・・。 【お布施の価格破壊】と、僧侶派遣業社さんも広告を・・・。 いつの間にか、お気持ちがどっかに行ってしまった。 いつの間にか、お気持ちがいらなくなってしまった。 『修証義』というお経です。 〔原文〕 布施というは貪らざるなり、 我物に非ざれども布施を障えざる道理あり、 其物の軽きを嫌わず、其功の実なるべきなり、 然あれば則ち一句一偈の法をも布施すべし、 此生佗生の善種となる、 一銭一草の財をも布施すべし、 此世佗世の善根を兆す、 法も財なるべし、財も法なるべし、 但彼が報謝を貪らず、自らが力を頒つなり、 舟を置き橋を渡すも布施の檀度なり、 治生産業固より布施に非ざること無し。 〔意訳〕 布施というのは、貪らない事です。 施すべき物が無いとしても、布施の意義を損なうものではないのです。 施す物の軽少は問題ではなく、布施の心が大切なのです。 それ故に、一句一偈の教えをも布施すべきです。 今生はもとより来世にあっても善根の種まきとなるでしょう。 たった一銭であっても、わずかな物であっても布施の心を持って施すべきです。 それが、現世と来世に実を結ぶ尊い縁となるのです。 法と財とは別物ではありません。元来、一つものの裏表です。財法二施の功徳は無量なのです。 ただ、相手からの代償を求めないで、自分のもてる力量に応じて布施することが何よりも大切なのです。 このような布施の心をもってするならば、川に渡し舟を寄付したり、橋を架けたりすることも布施なのです。 社会の仕事としてあらゆる産業にはげむのも、本来は、布施の心に基づくものであり、実は、布施にほかならないのです。 金儲けだけのための仕事は続かない。 金で買えない物はない、と毒づいた実業家は、結局、自分の人生を買う事はできなかった。 働くとは、傍を楽にすること。 仕事は、金儲けではなく、布施の行の実践。 以前、勤めてたお寺での事。 父親が亡くなり、葬儀の依頼に来た遺族。 お金持ちの住職さんは、メニューを指差して、50万円を要求。 そんなに、払えない、余裕がない、と、懇願する遺族。 いくらまでなら出せるか、と尋ねる住職。 半分の25万円が精一杯です、と遺族。 わかりました、じゃあ、こういたしましょう、と、住職が出した提案。 通夜か葬儀か、どちらかだけにいたしましょう。 まず、坊主のお前らこそが、布施の行をしろ、と嗤われる。 布施というは貪らざるなり。 布施というは貪らざるなり。
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1月 22日 言の葉 〔4〕

淡雪の 中にたちたる 三千大千世界 またその中に 沫雪ぞ降る 良寛 三千大千世界とは、仏教の宇宙観です。 須弥山を中心とした小世界を千倍したものを小千世界、それを千倍したものを中千世界、さらにそれを千倍にしたものを三千大千世界という。つまり、この世界には合計で1000×1000×1000=10億の世界があると説かれてあります。 今、私たちの生きているこの世は、目には見えないけれども、実は、とても広く、とても深く、そして、とても大きな世界なのです。 地球上の、日本の、神奈川県の、川崎市の、溝の口の、某所にいるけれども、その命は、三千大千世界を生きているのです。 現実の、溝の口での、せこせこした生活のみが、全てのような気がするかもしれないけれども、実は、この一挙手一投足が、この一呼吸が、三千大千世界と繋がっている。 せこせこした暮らしの、せこせこした命のみに執着するのではなく、 大きな大きな命を自覚しながら、こころゆたかに人としての生を生きる。 雪が、ひらひらと舞う。 その一片、その一片に。 三千大千世界がある。 その三千大千世界の中にも、また、雪が、ひらひらと舞っている。 その雪を 拝まないでいられない 良寛さん。 真実は、日々のこの暮らしの中にこそある。 気付くか、気付かぬか。 気付くか、気付けぬか。 真実は、遥か彼方にあるのではなく、いま・ここにある。
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