大童法慧 | 僧侶的 いま・ここ
何かを得ようとするのではなく 何かを捨ててみよう
大童法慧,曹洞宗,僧侶,祈祷,相談,生き方,悩み
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僧侶的 いま・ここ




2月 11日 一得一失

このブログがご縁となり、新たなご縁をいただきました。 葬儀や法事の相談を受けたり、また、法話の依頼をいただいたりするようになりました。 こんなブログでも、多い日には、300を超えるアクセスがあります。 こんな内容でも、支持するコメントを頂き、励まされております。 正直な話、恥ずか…

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2月 06日 時の音

最近、お会いしたお二人です。 【一人目】 大きなお寺のご住職。大切なものは、大きな伽藍。 不惑の40代。ゴルフも、まだまだ、伸び盛り、との事。 奥様は、テニスとお茶に励み、ご子息は、宗門の学校に入れた、とご自慢。 得意顔して人生を語るおせっかい・・・ そこには、善人面して名誉欲が…

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2月 04日 不立文字

不立文字 教外別伝 直指人心 見性成仏 これは,達磨大師の言葉と伝えられています。 不立文字<ふりゅうもんじ>とは、 禅は、文字や言語では現す事ができない。 坐禅をする体験によってのみ、体得できるものである。 教外別伝<きょうげべつでん>とは、 文字言説による教説の外に、心から心に禅の真髄を伝えてきた事。 以心伝心と同義。 直指人心<じきしにんしん>とは、 外にばかり目を向けず自分の心をよく見つめなさいという事。 思考や分析をいくら重ねても、自分の心をつかめるものではない。 見性成仏<けんしょうじょうぶつ>とは、 自分の本性をよく見つめれば、仏性に出会い、見<まみ>え、自分が自分になることができる事。 川崎いのちの電話公開講座 養老孟司氏講演会『死の壁をこえる』が、昨日、開催されました。 その要旨。 人には、本来、感覚の世界と概念(意識)の世界がある。 感覚の世界とは、違いの世界であり、 概念の世界とは、同じの世界である。 現代人は、概念の世界にのみに価値を認めようとする。 概念の根会とは、言葉の世界。言葉は、人や社会を均一化してしまう。 しかし、頭で考える事に、どれだけの意味があると言うのか? 概念の世界のみを相手にする事で、結局は、その概念に殺されてしまう。 大切な事は、感覚を開く事。 感覚には、周りの世界を見る働きと自分の体を知る働きがある。 言葉や文字、つまり、概念で坐禅を理解しても、それは、理解でしかない。 大切な事、それは、坐る事。 禅の坊主にとっての感覚とは、坐禅。
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2月 01日 言の葉 〔5〕

【原文】 縦読恒沙書、不如持一句。 有人若相問、如実知自心。 良寛 【読み下し】 縦へ恒沙の書を読むとも、一句を持するに如かず。 人有り若し相問はば、如実に自の心を知れ。 【補足】 数巻の書物をよんでも、心得が違うと、野郎の本箱字引になるから、ここを間違わぬようにすべし。 勝 小…

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1月 29日 脚下照顧

禅門の多くのお寺の玄関には、脚下照顧と書かれた物があります。 脚下照顧とは、足元を看よ、との意。 徒に、外に向かって、真理とか、真実とかを求めるのではなく・・・ その、あなたの、そのお足元。 そう、そこに。 いま、ここに。 宝の山がありますよ、との教え。 足元を看る。 その足元とは、あなた自身のお足元。 他人の足元ばかり、見てては、だめですよね。
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1月 24日 布施

一般に、布施という言葉は、葬儀や法事に対するお礼として用いられています。 お礼の気持ちがあるのなら、まだ、話にもなりますが、現実には、読経に対しての対価、戒名に対しての代金のように思う方が多いようです。 お布施はいくらですか? お気持ち結構です。 こんなやり取りも、今じゃ古臭いみたいで・・・。 はい、院号の葬儀は200万円で、その中陰忌の法事は15万円です。 と、答えるのが親切みたいで・・・。 さばけたお寺は、メニューよろしく、料金表を張り出す。 檀家という名の顧客は、お金を熨斗袋に包まず、裸で支払う。 そのうち、支払いは、カードで。ローンなんか組んだりして・・・。 【明朗なお布施】と、葬儀社さんが宣伝して・・・。 【お布施の価格破壊】と、僧侶派遣業社さんも広告を・・・。 いつの間にか、お気持ちがどっかに行ってしまった。 いつの間にか、お気持ちがいらなくなってしまった。 『修証義』というお経です。 〔原文〕 布施というは貪らざるなり、 我物に非ざれども布施を障えざる道理あり、 其物の軽きを嫌わず、其功の実なるべきなり、 然あれば則ち一句一偈の法をも布施すべし、 此生佗生の善種となる、 一銭一草の財をも布施すべし、 此世佗世の善根を兆す、 法も財なるべし、財も法なるべし、 但彼が報謝を貪らず、自らが力を頒つなり、 舟を置き橋を渡すも布施の檀度なり、 治生産業固より布施に非ざること無し。 〔意訳〕 布施というのは、貪らない事です。 施すべき物が無いとしても、布施の意義を損なうものではないのです。 施す物の軽少は問題ではなく、布施の心が大切なのです。 それ故に、一句一偈の教えをも布施すべきです。 今生はもとより来世にあっても善根の種まきとなるでしょう。 たった一銭であっても、わずかな物であっても布施の心を持って施すべきです。 それが、現世と来世に実を結ぶ尊い縁となるのです。 法と財とは別物ではありません。元来、一つものの裏表です。財法二施の功徳は無量なのです。 ただ、相手からの代償を求めないで、自分のもてる力量に応じて布施することが何よりも大切なのです。 このような布施の心をもってするならば、川に渡し舟を寄付したり、橋を架けたりすることも布施なのです。 社会の仕事としてあらゆる産業にはげむのも、本来は、布施の心に基づくものであり、実は、布施にほかならないのです。 金儲けだけのための仕事は続かない。 金で買えない物はない、と毒づいた実業家は、結局、自分の人生を買う事はできなかった。 働くとは、傍を楽にすること。 仕事は、金儲けではなく、布施の行の実践。 以前、勤めてたお寺での事。 父親が亡くなり、葬儀の依頼に来た遺族。 お金持ちの住職さんは、メニューを指差して、50万円を要求。 そんなに、払えない、余裕がない、と、懇願する遺族。 いくらまでなら出せるか、と尋ねる住職。 半分の25万円が精一杯です、と遺族。 わかりました、じゃあ、こういたしましょう、と、住職が出した提案。 通夜か葬儀か、どちらかだけにいたしましょう。 まず、坊主のお前らこそが、布施の行をしろ、と嗤われる。 布施というは貪らざるなり。 布施というは貪らざるなり。
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1月 22日 言の葉 〔4〕

淡雪の 中にたちたる 三千大千世界 またその中に 沫雪ぞ降る 良寛 三千大千世界とは、仏教の宇宙観です。 須弥山を中心とした小世界を千倍したものを小千世界、それを千倍したものを中千世界、さらにそれを千倍にしたものを三千大千世界という。つまり、この世界には合計で1000×1000×1000=10億の世界があると説かれてあります。 今、私たちの生きているこの世は、目には見えないけれども、実は、とても広く、とても深く、そして、とても大きな世界なのです。 地球上の、日本の、神奈川県の、川崎市の、溝の口の、某所にいるけれども、その命は、三千大千世界を生きているのです。 現実の、溝の口での、せこせこした生活のみが、全てのような気がするかもしれないけれども、実は、この一挙手一投足が、この一呼吸が、三千大千世界と繋がっている。 せこせこした暮らしの、せこせこした命のみに執着するのではなく、 大きな大きな命を自覚しながら、こころゆたかに人としての生を生きる。 雪が、ひらひらと舞う。 その一片、その一片に。 三千大千世界がある。 その三千大千世界の中にも、また、雪が、ひらひらと舞っている。 その雪を 拝まないでいられない 良寛さん。 真実は、日々のこの暮らしの中にこそある。 気付くか、気付かぬか。 気付くか、気付けぬか。 真実は、遥か彼方にあるのではなく、いま・ここにある。
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12月 30日 みんな 心配いらないよ

みんな 心配いらないよ みんな 心配いらないよ 何を心配しているの 自分が生まれたと思って心配しているのでしょう 生まれたんじゃないよ 生まれたんじゃないよ <どういうことでしょう・・・・・> もともと全部 授かっていた いのちなのです ひょっこり生まれてきたんじゃないんだよ はじめのはじめからいらっしゃった あなたです 真のいのちは常にひとつ 元来 授かっているいのち <どこに・・・・・> いつも 今ここ 一切に 一切に我がいのちは充満せり 縁によって 現れてくるものなのです ・・・・・ただ 現れる 縁によって しばらく姿を隠しても 何処へも行かない縁を 必ず現れてくる縁を みんな一人ひとり 作っているのだから 必ず現れてくる いのちは永遠なり 不滅のいのちの主人公なり 無くなっておしまいというようないのちではありません さびしい・・・ かなしい・・・ つらい・・・ 不安なものは ないよ みんな 心配いらないよ みんな 心配いらないよ
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12月 23日 人形供養会 法話

少しばかりお時間をいただきお話をさせていただきます。 申し遅れましたが、私は曹洞宗の僧侶で法慧と申します。 お寺は福島県の郡山市にございまして、現在は川崎の溝の口で別院という形で坐禅や法話などの布教活動をしておりますが、昨今、ITというのでしょうか、あらたな世界がさらに広がりまし…

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